web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

最近思ったことの羅列

◇土佐有明さんのブログで紹介されてて興味を持った(http://d.hatena.ne.jp/ariaketosa/20090202)ので、ブックオフで読了。安達哲『キラキラ!』。
 『お天気お姉さん』と『さくらの唄』、『バカ姉弟』しか読んでなかったけど、『バカ姉弟』以外全部が暴走妄想でぐいぐい引っ張って、その勢いを殺さずにそのままたたむ・・・。てっきり『さくらの唄』でギリギリの状況に陥ったからこそ出来た方法だと思ってた。身を削るような作り方だと思うけど、すっごい力あるなあ。ちなみに、『キラキラ!』には上にあげた安達作品の元キャラが全部出てくる。

冬目景イエスタデイをうたって』はそのときブックオフにあった2巻まで。とりあえず今のところ、『めぞん一刻』の焼き直し感は否めなくない・・・けど、時折覗く結構ガチな台詞にドキッとしたり。ただ、まあ今のところそこまでは・・・。

◇そういえば、『めぞん一刻』っていうのはやっぱりすごい作品だった。僕がマンガって超面白いって思ったきっかけって、ひとつは諸星大二郎妖怪ハンターシリーズをブックオフで何気なく手にとったってので、んでもうひとつは『めぞん一刻』をブックオフで何気なく手に取ったっての。ブックオフだらけ。
 成長譚に見せかけながら、実は全然成長譚ではないっていう指摘は正しいと思うんだけど、同時にそこで僕が思うのは、「〜な俺」っていう、自分をくくって見る姿勢がこの作品を読むことで備わるっていうこと。成長なんかせずとも、成長っぽいことしてる自分を眺めながら生きていくことが可能だっていう。メタ視点に立つことと、「まるで『めぞん一刻』みたい」って浸ることが、全く同じ意味を持つ。ま、一種のナルシシズムで気持ちが悪いです。ナルシシズムとメタ視点・・・チャ(略)。

◇ところで最近、表現の矛先のことを考えたりする。矛先って言っても、表現は具体的に向かう先を想定して行われるわけではなくて、あくまでも作者の欲求から発信するもんだと僕は考えているから、とりあえずここではそういう話は抜きにします。
 僕は僕と身の周り、特に彼女のことしか考えていない。僕が彼女に何かを伝えようとしているとき、それがほとんど言葉の可能性を考えることと等しいくらい、詩的なクリエイティヴィティを発揮していることがある。んで、その強度を審査するのは、当然彼女ひとりしかいない。例えばこれが詩集やら小説やら新書やらという形で出版され、僕が彼女に向けて発した言葉のひとつひとつが不特定多数に公になったとき、もしかしたら彼女とは異なる審査をする人が出てくる可能性はある。しかし、僕はそうはしない。僕の詩的表現の活動範囲は、僕から彼女までの距離の間で行おうって思ってるから。

◇Life『未知との遭遇2009』を聞いた。久々に出したメールが読まれなかったのは残念w。てか、佐々木さんの実感はおそらく「世の中自体は多様になっているにも関わらず、その多様性に耐え切れずに排他的になってしまう人がいる。どうしましょ」ってことだと思うんですが、それがチャーリーには全く伝わっていないようで。
 てか、チャーリーさんはむしろ最近「こんな変な俺ですら受け入れてもらえて生きやすい」そうで、ってのはおそらくチャーリーにとっての「≒居心地の良い場所を見つけた」ってことでしかなく、世の中自体が多様性を容認している方向になっているかといったら、それはちょっと疑問。だってみんなスピリチュアルとか好きじゃん。あーゆーのがないと不安なんじゃないんすか?ま、この辺はどっちが世の中に近いかなんてわっかんないですけど。

◇それにしても、佐々木さんの孤軍奮闘ぶりを聞きながら、やっぱLifeに出てる人たちはみんな偉いなって思った。ていうのも、言葉を言語として使ってるから。同じ感覚を共有してない人と話しをするのは、結構体力がいる。自分の感覚のいちいちを説明的に、言語として説明せにゃならない。その辺の作業をめんどくさがる傾向が僕にはあるのですが、やっぱり身の周りにはわけのわからない雑音を置かなきゃいかんよねって思う。いかんってのは、身の周りの人以外とコミュニケーションがとれなくなるって意味。
 ただ、身の周り以外とコミュニケーションをとる必要性or欲求って、実際どこまであるんだろうと思ったりもする。

◇未知のものについて。佐々木さんが驚きのハードルを下げてるのは、著作を読んでBRAINZを受講したりするとよくわかる。そうでなくても、「え〜この程度で??」っていうのは実際結構ある。そういう現場に居合わせたときなど、やっぱオトナだなあなんて大雑把な言葉で僕はくくってしまったりもするんだけど、でも、だからこそ、僕は若いので、ホントに驚いたものについて素直に書けばいいんだと思う・・・。
 えーっと。というか、確かに何かを知れば知るほど、驚きは減る。そこで驚きを維持する方法は、まず佐々木さんのように驚くハードルを下げる、ということがある(下世話な話、佐々木さんは浮気をしないタイプだと思うwww)。けど、実はそのほかにも単純に、「あんまり知らないでおく」っていう方法だってあると思ったりする(下世話な話、70で糖尿になって衰えるとして、20くらいからの約50年間、ゆっくりゆっくりプレイを変えていけば、常に感覚フレッシュじゃないか!!48手だって、一年一手づつやってけば48年驚ける!!
 ・・・。
 なんの話しだかわからなくなってきたけど、つまりね、そういうのがあるってことは知りつつも、それを体験するのはゆっくりねっていうことです。記録メディアが出来てから、概念の発展を知ることはものすごく簡単になった。けれど、概念を知っていても、それをもう一度体験としてなぞることだって可能なんじゃないかって思う。その上で、正史が意外と取りこぼしているものを発見できたりしたら儲けモンだね、みたいなスタンスでやりゃあいいんじゃないのかなあ。