web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後6時。カップルに挟まれてラーメンを啜る。

ラーメン二郎とか中本みたいながっつりしたのが食べたくて、町田でそんな店を探してた。よさげに見えてふらりと入ったラーメン屋、中に入ると女性店員で統一されてて、味もかなりあっさりめ。多分女性向けを売りにしてるお店なんだろうなあ。おいしいはおいしいけど、二郎って感じとは程遠かったかな・・・。関係ないけど、2chで見かける「welcome to 二郎ワールド」ってコピペは大好き。

エデンの東じゃなくて、『東のエデン』。ちなみに、北と南っていうのは、地球規模、いや、太陽系規模で承諾されている、限りなく真理に近い取り決めなわけだけど、東と西っていうのはどこまでも相対的なもの。例えば極楽浄土を目指したお坊さんは「西行」と名乗り、ならば俺は地獄を行くと言い放った高杉晋作は号を「東行」とした。しかし考えてみれば、西も一回りすれば東に回り、東もまた西になる。ちなみに、エデンの園を追い出されたアダムが食べたのは善悪を知る木の実で、その木自体は楽園に生えてたわけだ。どこだってどこかになり得る。

ノイタミナ枠のプロダクションI.G.作品が気になって、youtubeで『図書館戦争』を観た。どうにも切羽詰まらない「戦争」と「乙女」の日常、そして「王子様」。どうかなってしまった世界でも変わらずに恋バナを繰り広げるというたくましさに座布団一枚。多分正しい。けど作品はそんなに・・・。

大澤真幸『恋愛の不可能性について』読了。多分一月以上かかったw。そして二度目を読み始めるw
 そもそも紙に書かれた言葉を立体的に立ち上がらせる作業が読書だとすると、全ての散文は詩でなければならない。言葉はそのままだと読者(筆者も含む)を振り回すわけで、じゃあどう振り回されるかってのが問題になってくる。だからまあ、そこまで言っちゃったら、全てのことばは詩であるってことになっちゃって、結局何も言わないのと一緒になってしまう・・・。
 まあちょっとかなりでかいとこから話しはじめちゃったので、ここで話戻します。大澤真幸の文章っていうのは、極めて鋭敏な詩的感覚を持って言葉を使ってるように見えるってことね。「この論のなかではとりあえずここからここまでがこの言葉の示す範囲ってことにしましょうね」って丁寧に宣言していく。こういう、言葉にデリケートな人の作品ってすごくいいよね。

◇地の文を語りでいくか描写でいくか。どっちもいきたいからどっちもやるって結論づけたのはいいけれど、でも、それが語りなのか描写なのかを誰が見ても明らかにするか、あるいはあやふやなままにしておくかってのも気になってきてしまった。いや、本当にどっちでもいいんだけど、自分で書いてるときに気になって、意識してしまう。

◇作品と同一化してる瞬間って、つまり作品固有の時間と自分の時間をシンクロさせてる気になってる瞬間。でも、作品の時間でもなく、自分の時間でもない、第三の時間にいく瞬間もある。いや、シンクロさせてる気になってても、実はそういう第三の瞬間を迎えてるんじゃないだろうか。ってなことを夢の中で話していた。