web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後4時。ぬるい風吹く曇りの平日、八王子の街歩き。

◇明日からマレーシアにある義姉の家へ。4歳と1歳半の甥っ子のために、八王子の玩具屋さんをはしご。ベイブレードとだるま落としがなかなか見つからない。ベイブレードは幼稚園でブームらしいのだが、ベーゴマの現代版であるこのおもちゃは、自分の好みで駒の攻撃力をカスタマイズできる。つまりとても趣味的なものなのだ。趣味を共有してコミュニケーションしていくという社会参加の方法は、なんと既にこの時期から身に付けている。一方、だるま落としは、物理的な快楽に没頭する類いのおもちゃである。それで僕らが満足できるのは、いつ頃までなのだろうか。快楽に純粋に身を任せるのは、孤独な作業ではあるけれど、円満に閉じた、幸福な世界である。なんの因果か、僕らはそこから出てしまう。

クリルタイ増刊号『ドルジ(仮)』の中二病座談会。スカイプ上で書ききれなかったことを、編集時に差し込んだらずいぶんと長い発言になってしまった。

ホモソーシャルな馴れ合いっていうのは、いつか終わらなければならないものだとされている。ダラダラとした居心地の良さに自ら見切りをつけ、戻ってはいけないものにしなければならない。例えば僕は町田という新宿から電車で45分くらいのベッドタウンで育ったが、就職や進学を機に、仲間と離ればなれになるということがあまりない。みんなあまり実家を出ず、いつまでも小中の仲間とダラダラとつるむ。しかしそれが居心地良く、長い関係になればなるほど、この関係がいつかは終わらなければならないような気がしてしまうのだ。素晴らしすぎる今に、後ろめたさを感じてしまう。

さらば冬のかもめ』はつまりそういう作品だ。そして『稲中』〜『シガテラ』までの流れも、実はそういうことになっている。しかし両者の間には、自分たちの「外側」(暴力)に対して、接し方に大きな違いがある。『さらば冬のかもめ』が単に暴力に屈するという形式をとらざるを得なかったのに対し、『シガテラ』は「外側」との共存を自ら選びとる。なぜなら恋愛関係とは、異性と濃密な関係を築くことであり、そして異性そのものが、「外側」の存在だからである。

◇その後の古谷実の作品については、僕は正直よく理解できていないが、しかしおそらくそれは古谷実がどうこうというよりも、自分自身がどうするかを考えていけばいいように思ったりもする。そして、古谷実古谷実で何かに没頭していったらいいのではないかと思う。