web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後1時。曇りの運動会、風呂場でこだま。

◇近所の小学校の運動会、今日は寒いんじゃないだろうか。

◇先日の文フリでリリースした『アラザルvol.4』。アラザルは、個人の原稿に対するテーマの縛りはない。ので、おのおのがてんでバラバラな問題意識で取り組むわけではあるが、にも関わらず、それぞれの原稿に共通した意識を感じることがあったりして、そういうときに「関わり」の強力さを感じる。

◇気付くと、妻を言語化して考えることがなくなっていることに気付く。それはある意味、妻と一体化しはじめたということで、幸せなことではあるはずだ。僕が「母」であることを目指すのならそれでいいと思っている。けれど、僕が「外」に出て何かしらの活動をする以上、僕は妻と自分の間に切断面を作り出していかなければならない。妻の中に他者を見出していかなければならない。つまり言葉を二人の間に挟む、ということ。妻を対象化する、ということだ。
 この二つをどのようにして扱おうかと思いながら、江藤淳『成熟と喪失』のつづきを読んでいく。

◇『sex and the city2』の予告編を見ながら、「娼婦」に変質する「母」を思わずにはいられなくて、なんとも苦笑い。lady gagaのメカニックなイメージにも似たようなものを感じる。

古事記』に出てくるあの「妣の国」とは、単に日本民族の故郷である遠い海の彼方の国を指すだけではなく、われわれが農耕を開始して定住する以前の、犯されることなく抱擁し、強奪される前にかぎりなくあたえた大地の記憶でもあるのかもしれない。そして「妣の国」を慕う心情のなかには、「母」を犯してこれを破壊した者の、深く暗い罪の意識が隠されているのかも知れない。いずれにせよ「母」は「自然」の奥底にひそむものであっても、決して「自然」の否定ではありえない。そしてもし「母」との完全な密着のあたえる幸福感が不可能だとしても、「母」を犯した者の贖罪と「母」から奪った収穫の歓喜との二点によってつながれる生活のサイクルが維持されているかぎり、人は安息のなかに暮らし続けることができる。

しかし、もし「母」とされる者が自ら「自然」を否定し、それとともにあの贖罪と収穫のサイクルに支えられた生活のリズムも切断されるとすれば、それはまさしく母性の自己破壊に他ならない。そして「母」が進んでこの自己破壊の中に「幸福」の幻影を見ようとするとき、共犯を迫られる「子」のなかには、何によっても償いようのない罪悪感と不安が堆積するほかない。なぜならそこでは「母」が自ら犯させようとし、強奪させようとするからである。いいかえれば、このとき「母」は「娼婦」に変貌する。「自然」を拒否して「人工」のなかに「母」が自分の世界を規定したとき、彼女は知らぬ間に暑く化粧した「娼婦」に変質している。

◇ちょっと今から出掛ける。あ、twitterみたい。https://twitter.com/andoh3