web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後12時半。馬の手綱を引くように、米を積んだ自転車を押す。一の市の帰り道。

◇妻とスーパーへ。
 10キロの米を買いに行くので、自転車を使えば楽だろうということだった。妻は自転車を「押す」と言い、僕は自転車を「引く」という言い方をするのだが、それは漕がない自転車に対するイメージの違いによるものだった。妻は車いすやベビーカーを押す様子を思い浮かべ、僕は牛や馬を引く感覚であった。
 帰ったら空気を入れてやった。

◇『インセプション』。私小説として観てしまう。『ダークナイト』の主演ヒース・レジャーを喪った、クリストファー・ノーラン私小説

◇『ダークナイト』のジョーカー役をやるにあたって、徹底的に役作りをしたヒース・レジャーの話を聞いたことがあって、一部ではそれも彼を死に追いやった間接的な原因なのではないかという憶測があった。そんな噂を小耳に挟んだ僕には、『インセプション』で描かれた亡霊(ディカプリオの妻)は、ヒース・レジャーであり、ディカプリオの苦悩はクリストファー・ノーランのそれだったかのように見えていた。

◇あの作品の中で「夢」として語られるのは、つまり映画のこと。勝手な憶測をすると、多分、『ダークナイト』の撮影は、ヒース・レジャーにとって「これは映画ではない。現実である。」というインセプションになってしまったのではないだろうか。

◇物語を推進させるための人物、大企業の御曹司は、映画に化かされる気の毒で純朴な観客のようなものではあるが、これはある意味、映画が与える啓示的威力を物語るエピソードでもあるような気がする。イメージの計り知れなさへの畏怖。

◇映画のエンディングについて、あの独楽が回り続けるか止まるかという議論を一部で見かけるが、それ自体には結論が出ていると思う。大事なのは、あの独楽を最後に回すという行為であるように思える。
 あれが映画内の現実であるならば、独楽はいつかは止まるものである。しかし同時に、これは映画という夢である。夢であるなら回り続けなければならない。
 この葛藤を抱えてエンディングを迎えることは、問題定義でありながら、実は充分な回答でもある。あのシーンでエンドクレジットに移ることは、それによって独楽の回転を終えている。夢が終わり、現実に「キック」される。そしてまた同時に、作品内においては、映画がそこでエンドクレジットに移ることで、独楽は回り続ける。夢は夢であることを続けるのである。

◇僕はここで、再び噂話を真に受けたまま続けてみる。夢と現実の混同から双極性障害に陥ったヒース・レジャーの噂。彼にジョーカーという役を与え、インセプションしてしまったのは、クリストファー・ノーランであり、つまり彼はある意味では映画で人を殺したのである。しかしそれでもなお、彼は映画の魔力から逃れられない。いや、それは見方を変えれば、映画の魔力から逃げないことをも意味する。一方では、映画にインセプションされてしまう若者を描き、それがどれだけ罪深くおぞましい行為かを知りながら、それでもフィルム(独楽)を回す。彼にできることは、自分の手で、独楽を回して、これが夢か現実かを常に問い続けることである。それが夢であり現実であることにおののきながら、それでも彼はやり続けるしかないのである。呪われた自分を引き受けるしかない。
 ただ、蛇足だけれど、僕はこう思う。誰しもみんな、必ず呪われるのではないか。生きる以上、絶対に呪われる。それに気付くか気付かないかはそれぞれだけれど、呪いに気付き、それでもなお呪われた生を生きることこそが、リアルに生きるということなのだと思っている。

◇寝返りを打った妻を眺めている。