web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

「Life白熱教室〜これからの"社会"の話をしよう」外伝を聴きながら

ツイッターでは一日上限5ツイートと決めているので、これからそこをオーバーしてしまうヤツに関してはこっちに書いちゃおう。今日はなんと会社のPCから。なにやってんだか。

◇生では聞けなかったけど、今回の『文化系トークラジオLIFE』は面白い→http://www.tbsradio.jp/life/20100829life/

◇まだ昨日(というか今朝)の放送なので、podcast配信の前に、一足お先にustで外伝を鑑賞中(→http://www.ustream.tv/recorded/9236146)。
 47分辺りから恋愛と承認の話が始まって、社会学者の渋谷知美さんと哲学者の萱野稔人さんが、一部対立してるっぽく見えるところがある。「承認なんてなくても生きていける」という渋谷さんと、「人間は承認されなきゃ生きていけない」という萱野さん。
 僕は萱野さんの主張に完全に同意する。あと、両者の議論の論点は微妙にズレてるんじゃないかなあとも思うんだけれど、まあちょっと勢いに任せて書いてみる。

◇実は、恋愛にしろ仕事にしろなんにしろ、何かによって全人格的に承認されることなんて、あり得ない。ただ、その「全人格的な承認なんてあり得ない」ってことを理解するきっかけとして、恋愛は結構有効かもしれないというのが、この議論の根っこなのだと思う。
 個人がスペックに還元される場所で認められるだけでは、全人格が認められるわけではないのはわかっている。だとしたら、恋愛という個人間の肉感的な関係=交換不可能な関係の中で認められることで、全人格が承認されるかもしれない、という一種の幻想が生まれてくる。
 結局それは幻想でしかないのだけれど、でも「全人格的な承認があり得ない」ことを理解するために、世の中には恋愛体験を通過させる必要がある人と、それが頭で理解できてしまう人がいる、というだけ。社会学者の渋谷知美さんは、ただ単に後者だということだと思う。

◇けれど、僕は渋谷知美さんはやっぱりちょっと甘過ぎるとも思っていて、人間をどのように捉えているのだろう、という疑問がわく。
 人間の行動は、承認と切り離せない。人間は、良くも悪くも「今自分は生きているだろうか」ということを、いちいち確認しながら生きてしまう。だから言葉というものを持ってしまったんだと思う。言葉という現実とは違う次元に自分を置いて確認していかないと、人間は人間であることをやめてしまう。
 もし仮に、承認なんてなくても生きていける人がいるとしたら、それはもはや人間性を欠いた動物として生きているんじゃないだろうか。

◇承認は、他者から施されるものではない。本質的/本来的には、自分自身で自分を承認しなければならないものだと思う。そして、それができることをしっかり自覚している瞬間が、自我に気づいている時間なんだと思う。自意識によってしか自分をとらえられない状態から、自我によって自分を捉える状態に辿り着くためには、恋愛はかなり有効だとは思う。

◇その後、続きを鑑賞。charlieがちゃんと自己承認の話してるね。ただ、やっぱり承認は必要ないって発言できちゃう時点で何か強い違和感を感じる。そして萱野さんが完璧に恋愛と承認の話を語ってた。萱野さん信用できる兄貴キャラだなー。LIFE以外でどんな話してるのか知らないけど、少なくとも承認の話に限って言えば、完全同意。