午後4時半。西陽が弱くなっていた。
◇西陽によって部屋の温度が全然違う。何度も言うが、クーラーのない部屋に住んでいるので、夏の西陽が秋の夕日に変わる途中なのがすごくよくわかる。センチメンタル。
◇自分に対する意識を自意識というわけだけれど、それは自我とどう違うのか。
簡単にいえば、自分を捉える主体が違う。自意識で自分を捉えるのは、誰かの目に映った自分を想定している状態で、自我は鏡を見ることなく自分自身を捉えている状態。
◇自意識過剰と呼ばれる時期は、自我が未成熟な状態にあって、誰かの目に映った自分の姿を想像することでしか自分を捉えられない。それは不安だ。自分というものがどこまでも薄く広く引き延ばされていき、そのまま拡散してしまうような、足下のおぼつかない錯覚に陥ってしまう。つまり身体性が希薄だということ。
拡散されていく自分を、身体によってつなぎ止めようとする行為のひとつとして、自傷行為やらタトゥーやらがあるかもしれない。自分の身体に直接絵を描いて、皮膚と外の違いを確認する。少年時代、風呂の中で膝の擦り傷がヒリヒリする感覚が自分と世界の境目に思えた、というのは村上龍『長崎オランダ村』に出てくる例だが、そういう身体の生々しい感覚を欲し、常に繰り返すのが自傷行為で、そうしていないと自分がどこかへ薄く引き延ばされてしまいかねない。個人的な体験を話すと、小学生の頃、朝礼や避難訓練、全校行事のときなど、全員が学校の階段と廊下を同一方向に向かって歩いていて、僕は自分がどこにいるのかわからなくなったことを思い出す。そういうとき、僕は手の平を眺めることで自分を確認していた。
『インセプション』にも顕われたモチーフだけれども、自分が自分の物語の人物ではなく、他人の物語の登場人物であるという意識は、これに近い。どこからどこまでが自分なのか、そもそも自分は存在すらしていないのではないか、という不安は、実は本質的には解決しえない。
◇しかし、とはいえ反対に、どこからどこまでが自分なのかが完璧にわかり、その外に出られない、つまり「現実」が全てを支配してしまったらそれはそれでかなり困る。
『サイタマノラッパー』シリーズの肝であり、一作目と二作目に共通しているのは、迫り来る現実に押しつぶされそうになる最後の最後に「言葉がある」と描くところ。言葉の世界というのは、現実から切り離された世界であり、言い切ってしまえばフィクションである。が、ラッパーは、常にその言葉を現実から引っ張ってくる。自分だけのものではない言葉を使って、自分の想像の世界を作り上げ、そしてここが最も重要だが、その世界をまた現実に「放流」するのである。
『サイタマノラッパー2』が前作よりも今の僕に突き刺さったのは、彼女らがかつて夢や希望というポジティヴな単語で夢見た世界は、実はラップすることで現出することを発見するからだ。そして、その発見は、リリックを書き直すことによって生まれる。リリックを書き直すのは、つまり、現実を引き受ける際に、かっこいいラッパーになりたかったかつての自分を捨て去るのではなく、かつての自分を引き継いだ形で、目の前の現実を引き受けることである。
「大人になるというのは現実を引き受けることだ」というが、それが何か夢や希望を捨て去って、現実に屈することであるかのように思われているような節がある。しかし、それではただ単に、夢や希望を抱いたかつての自分をまるでなかったことにする態度でしかなく、実は現実に屈することすらできていない宙ぶらりんの状態だろう。
真に現実を引き受けるというのは、消せないログを残していくことである。現実というのは、常に無かったことにはできないものだからだ。“取り返しのつかない失敗”という表現があるが、失敗というのは全て、常に取り返しがつかない。戦争によって平和を学ぶことはできるが、戦争で亡くなった人が蘇るわけではない。「その失敗」というのは、いつだって取り返しがつかない。
一見、この取り返しのつかない現実こそが、閉塞感を強めるように思えるが、実は取り返しのつかない現実をラップによって刻み付けていくことで、僕らは現実に閉塞しない自分を発見することができる。つまり、自分は自分自身でしかないという現実は、自分の言葉を発見させ、それがリリックになる。リリックは、現実の関係から切り離された言葉である。と同時にその言葉はラッパー個人に回収されて終わるわけではなく、ラップされることで再び現実を流れて行く。
このことを、アラザル同人のid:ama2k46氏は、「推敲」という言葉で説明する。僕らは『サイタマノラッパー2』の感想を興奮気味にやりとりしていたのだが、氏はそのとき、以下のような点にまで言及した。「呪い」という以前のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20100801)の言葉を引いて説明してくれている。
で、そのじぶんだけのものではない言葉を使ってじぶんの言葉をつくることが、畢竟、この私が生きることに繋がりうるだろう。で、僕らがじぶんの言葉をつくるとは、推敲する、ということに外ならない。
推敲することには、終わりがない。つねにその終わりは暫定的でしかない。これで終わりです、と、原稿用紙の上やらモニタに、メッセージが表示されることがないのが推敲するということ。つまり、総ては「この私」に回帰する(責任を負う)。
しかし、僕らは推敲することで、その「この私」が更新されうる存在であることを実感できる。そして、そもそも推敲するとは、他人がその文をよりよく読みうるようにするためにすることである。じぶんが読者として想定されている場合も、その原理は揺るがない。なぜなら、私のもの(呪文)ではない言葉をつかって何かを書くとき、それは「この私」と一対一対応ではなく、いや、それを含みながらズレている。つまり、この場合も、書くこの私は、読むこの私に伝わるように祈りつつ、言葉をつかっている。
「この私」がその固有の生を生きつつ、やはり同様に固有の生を生きる「この妻」や「この猫」と共に暮らしうるとき、そこには必ず言葉をつかうことと推敲すること、そしてその呪いを引き受けることがあると思うのよ。
◇ラッパーを宣言するというのは、つまり自分自身の物語の主人公が自分であると宣言することである。自らの身の回りに溢れる言葉を、現実の関係から切り離し、再び現実に流す。そういう作業を繰り返しながら、自分の物語を推敲し続ける。これが、現実を現実として生きるための方法であり、「本当」=「リアル」に生きることなのだ、と思っている。
◇近くの市営プールに行くと、まだまだ週末の昼間は混んでいる。子供たちではなく、お父さんたちの方が暑いね〜と子供に声をかけていた。
僕は泳ぎ方をつかみかけている。変なところに力がこもらないで泳げるようになってきたので、筋肉痛も減り、泳ぐ距離も増えてきた。今月中に30分でクロール1000メートル泳ぎたいな。