午前0時。スパンコールの鱗が一枚、電車の床で乱反射している。
◇結構前のツイートを見直していたら、こんなんあった。ツイートすること自体は面白い。面白いこと言ってる人とやりとりするのも楽しい。けれども…。
◇やっぱりツイッターはダメだ。僕のように未熟な人間が使うと、TLの情報に引っ張られる。情報ってのは命令だから、そういうのは遮断することにしました、っていう佐々木中さんの行動*1には勇気づけられた。
◇本日(12/4)の水泳、45分1600m。フォームを見直し、S字で水を掻くのに慣れてきた。以前よりも一掻きの進み具合が全く違う。フォームを頭に入れて、水を掻く感覚を体に覚えさせていくのは、結構楽しいものです。
◇非英語圏のラップを漁る。やっぱフランスと韓国が懐深いなあ。多分知ってる人には今さらなんだろうけど、Keny Arkanaが素晴らしすぎる。今回初めて聞いてみたけど、これ買うことにした。
◇La Rage- Keny Arkana
ビッチ感が全くないどころか処女性すら感じさせるフィメールラッパー。さすがジャンヌダルクの国。ハスキーボイスが変声期の少年みたいなのも、潔癖な怒りと繊細な危さを思わせて、もうほとんど奇跡だよ!
keny arkana a 16ans avec Namor et Marocco al iman staff
更に若き日のものとおぼしき動画。か、かわいい…。このときはまだバンダナ巻いてない。
◇Mic Swagger - 3 Dead'P, Deepflow, J'Kyun
なんかの番組なのかな。とりあえずめっちゃ声太い。Dead'Pが個人的にはすごいツボ。男の色気。
Mic Swaggerの動画は他にも結構あって、片っ端から見た。なんというか、韓国ラップは衒いなくすんなりhiphopに入っていけているような印象を受けるんだけど、実際どうなんだろう。異言語間の意識がボーダレスな感じ。例えば、フリースタイル番組だけれど、ほとんど全部英語でラップする人が出てきたり、韓国語と英語のスイッチだけじゃなくて、さらに日本語にまでスイッチする人もいる。これだけで全てを理解するつもりはないけれど、フリースタイルの特性から考えて、今の韓国ラップの懐の深さを反映していると見ていいと思う。
あと、みんなガタイいいのは、ラッパーだからってだけじゃなくて、やっぱ徴兵制のせいかなあ。
◇スチャのラップは詞の朗読ではなく、歌であるという糸井重里による指摘のあとで、ボーズはそれをスチャに限定せず、ラッパー全てについて、こう述べている。
「誰でも、ラップをやろうと思った人は、その人特有のメロディーみたいなものをもともと持っていて、その人だけができる、なんか、型のようなものがあるんじゃないかと」
〜『ほぼ日刊イトイ新聞-彼方からの手紙』インタビュー内、ボーズの発言より〜
つまり、息遣いも含めた全てが、そのときの彼にのみ歌われる歌なのである。
ラップが押韻を多用することについても、同じ説明ができるだろう。韻を踏んでグルーヴを生む、自分の言葉でグルーヴを生みだすというのは、本来自分の外に用意されている言葉に、自分の体重を載せていく作業のこと。だから韻は「踏む」。言葉という抽象的で普遍化されたものを、自分の身体を介して「体験」することで、言葉の手触りを知る。そうやって、どこからどこまでが自分の身体であるのか、ひとつひとつ確かめていく。
ラッパーのリリックと、その他のリリックの違いをひとつ挙げるとすれば、書いた本人が歌うことを前提としているところだろう。例えば、僕たちがカラオケで「東京生まれhiphop育ち」と歌うことに違和感を覚えたら、すぐさま「横浜生まれhiphop育ち」やら「東京生まれMTV育ち」やらに変換して歌うことができる。もちろん、リリックを書いた本人だって、その時々で心情は変わるから、その場で今の自分を言い表す言葉に置き換えていくことがある。そういう意味では、ラップの本質はフリースタイルにある、というのは全くもって正しい。
しかし、一番重要なのは、いつだってその言葉は遅れている、あるいは微妙にずれている、ということ。いつまでたっても自分と言葉がぴったり重なりあうことはない、自分の全てをラップに載せることはできない。それが自分にしか歌えないリリックであるにも関わらず。同時にその事実が逆説的に示すのは、言葉に回収されない自身の絶対性(自分が今・ここにいるということ)、強靭な自分自身でもある。
ラッパーとしての優劣は、当然ながらラップにかかっている。が、それは良いリリックを書くか否かではなく、ラップするという行動それ自体にかかっている。だから、彼が良いラッパーか否かは、彼のみが知っている。
◇古谷実『僕といっしょ』を久々に読む。前回読んでから実は1年以上経っているかも。いやしかし、いつまでだって、何回だって言うけど、すごい作品です。今回強く思ったのは、たとえ望んだものが全て叶ったとしても、なんだか人生は続いてくんだよなあ、とかってこと。望みが全てかなったら死ねる!とか思ってても、人生はそんなこっちの都合などお構いなしに、情け容赦なく、沈黙している。
しかしだからといって、無力感に襲われてニヒルな気持ちになるのは気が早い。夢や希望に向かう愛や勇気、一括りにすればそれらは“意志”だが、そういうものを全く無価値に思ってしまうのは焦り過ぎじゃないだろうか。意志は、自分を自覚する。意志を持ったとき、彼の人生は彼を主人公にする。報われるか否かに終始する努力が卑しいように、結果を全ての価値基準にすることはおそろしくくだらない。ハッピーエンドか否かが映画の価値を決めるわけじゃあないだろう。
『僕といっしょ』を読み終えて、没入する時間から離れると、僕はちょっと自分のことを考えたのだった。
◇そろそろ、頑張ってやっているものが出来上がる。年内にいけるかな。
*1:『切りとれ、あの祈る手を』より