web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後12時半。携帯メール返すたびチーズ包む紙はがす手が止まる。

◇妻の作った弁当を食べていると、ちょうどメールが来る。昼休み。

◇書くのは筋肉運動だからなあ。

この程度のつまらない日記もどきでさえ、ずっと書いていないと、愕然とするくらい、文が下手になる。泣きたくなる。
〜「じりじりと書かねば。」天のさだめを誰が知る!?

 久々に書くと、文章に振り回される。病み上がりや久々の激しい運動など、それまで身体の一部である手足が妙に道具じみて感じるのと同様、文章だって手足のように使えなくなってしまう。id:ama2k46先生から聞いたのだけれど、一柳慧*1は今でも毎日ピアノを弾くし、60秒くらいの曲を書いているのだそうだ。完全にラッパーのそれだ。俺もやらなきゃ。

◇俺もやらなきゃ。あれもこれもと焦らずに、本当にやるべきことだけ絞って、ちゃんとやる。

◇自分のルールでdisったとかdisられたとか言ってる。んで、それがほっとかれたらほっとかれたでこっちは対話の機会を設けてるのに、とか言い出す。ツイッターが、そういう偏狭なルールの押し付け合いをするツールになるのなら、近づかないでおきたいわあ。ということで、はじめてブロックした。

◇文フリ、結構盛り上がってきてる感じがするなあ。行きたかったなあ。

◇帰宅。先週末にツタヤで借りてきた是枝裕和歩いても 歩いても』が超面白かった。妻チョイス。GJ。
 僕たちの見たい樹木希林が映ってた。あと、夜って怖い。

◇どんな極限状態に置かれても、倫理的でありたいとは思う。でも、果たしてそんなことできるのだろうか、とも思う。いやしかし、極限状態に置かれていない今だったら、僕みたいな根性なしでも倫理的であることはできるのではないか、と思う。
 みんなが不幸のどん底にいるときに、美しい理想をぽーんと出してみせるヤツはすごい。そういうヒーローには憧れていい。自分もそうなりたいと思っていい。でも、当然ながら実際にヒーローになれるヤツはなかなかいない。だからみんな困る。中には自分にしかわからない不幸を作り上げて、その自分にしかわからない不幸に負けないヒーローを演じて、ごっこ遊びを始めるヤツもいる。それがどうしてもごっこ遊びに終始するのは、不幸を本気で不幸だと自分に信じ込ませることができないからだろう。だから後ろめたいんだろう。
 でも、こう考えたらどうか。不幸を味わったことがない今なら、俺にだって理想が言える、と。アマちゃんで、世間の酸いも甘いも知らないからこそ、まるで子供のように純朴で潔癖に理想を語れるんだ、と。そう考えると、不幸がないせいで知ることのできなかった幸福をも、そこから生み出してしまえる。不幸があって幸福があるんじゃない。幸福があるからこそ、不幸に本気で怯えることができる。その怯えは、希望と呼ばれたりもする。
 ぬるま湯に浸りきった今の僕にしか言えないことだって、きっとあるんだろう。

◇久々に、おなじみのあれ、いっときますか。

*1:アラザル3にインタビュー掲載!