web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後1時。テレビを消して妻と二人、風呂の沸くのを待つ。

◇昨夜ダイソーで買ってきたトランプで、大貧民をする。5戦やって、勝ち星の多い方が先に風呂に入れるというルール。3勝2敗で僕の勝ちだったが、頭がかゆいと言って先に妻が入ってしまった。

◇土曜日に45分1700メートル。一日空け、今日は45分1850メートル泳いだ。段々2000メートルを目指せるぐらいになってきたのだけれど、土曜日に行われたアラザル新年会では「太った?」と聞かれること多数。体力と見た目はほとんど関係がないことがよくわかる。

◇その忌まわしき土曜日のアラザル新年会。話題は『インセプション』と『ノルウェイの森』ネタに始まり、ホーキング博士、歌舞伎の演目『抱擁家族』、果ては伊藤リオンの角界入りについて検討するなど、これでもかとばかりくだらないことを全身で語り合った。珍しく喧嘩は起きなかった。

アラザル新年会の帰り道、電車内で吉田健一『時間』を読む。独特の文体で、酔った頭で読めるだろうかと思ったのだけれど、意外にも酔っている方がスラスラと読み進めやすい。実はこの著作は前の段落の話題を引き継ぎながらも微妙に横にずれながら進んでいって気付けば同じことが何度も語られてそこからまた前とは異なった論の展開を見せたりしているのでこれは実はかなり居酒屋で話すときと精神状態が合っているのではないかと思う。あるいは圧倒的な読点の少なさによって生まれるリズムで言葉が目から頭へと受け渡されるときに生じるタイムラグがまるで酔ったときの理解の速度そのものなのかもしれない。そういうわけで、酔った時間感覚で読んでいった。
 今自分でまねてみて分かったのだけれども、僕らが普段何かを読むときは、読点で視覚的なブレス(息継ぎ)を作りながら意味の受け渡しの一区切りを明確化していく作業もしている。しかし、一息で把握するのが難しい長さにまで言葉が連なっていくと、同じ区切り全体が言い表すものがどうにも曖昧になっていき、運動として、言葉が前に進んでいく感覚を強く覚える。ひとつの文章を読んで意味が捉えられないと思ったとき、僕らはわかっているところまで戻って読み返すものだが、それは実は読点を打ちながら書かれた文章に可能な方法で、『時間』のように読点に頼らずに書かれていった文章だと、意味を捉えるのに失敗してもう一度わかっていたところまで戻ろうとすると、先ほどまでわかったと思って読んでいたはずのところでさえも、あれ、俺ここさっきわかってたはずなのに、なんかここから読み返すと意味がわからないや、となり、ちょっと前ちょっと前、と、わかるところを探していくうちに、結局段落の頭に戻ってしまったりする。つまり、読点を頼らずに書かれるだけで、限りなく一方向な流れが出来上がってしまう。ここでわかることは、文章を書く、そして読むということは、意味の連なりのリズムを、意味の理解の呼吸を、書いている人間と同じ速度で、同じ高揚で、読んでいくということなのだ、ということだ。

言葉が働き掛ける時にそこに常に現在があるということは既に前に言ったことであるような気がする。併しこれは繰り返していいことかも知れなくて動詞に過去形が用いられているからそれは過去であるという種類の幼稚な錯覚はまだ払われていない。これは例えば大概の小説は前にあったことの話であってそれを読んでいて我々が追懐の情を唆られたりするのでないことに一度でも気付けばすむことであるが言葉を用いてするのは小説を書くことだけでなくてベルグソンが進化に就て語る時にそれは曾て地上にあったことでなくて現にベルグソンの言葉に従って進化が行われるのが見られる。この言葉の働きも我々に従来の過去の観念を修正させるのに充分である筈で前にあったことがもうないというのは言葉、或は記憶、要するに何かの意識の働きでそこにそれが再びあることになることに背反する。又それが前にあったこととして意識に上るというのは自分の意識の働き方に気付かずにいるのでなければ考えられないことである。
吉田健一『時間』

 今ふと、この人はどうだったろうと思って大澤真幸『恋愛の不可能性について』を開いたけれど、やっぱりちょっと異様なくらい読点が多い。可能な限り言葉を正確に規定して書いていこうとする様子は、ここからも伺えた。

◇リリックを書きながら、リリックについて、ラップについて気になることがどんどん出てくる。菊地成孔大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校』を久々に開いてリズムについて学ぶとともに、大谷能生『散文世界の散漫な散策』を読んで『時間』を読む決意をする。アクセント言語とグルーヴ言語、書き言葉と話し言葉、そしてそれから時間。わかりたいことが目の前にごろごろと、沢山転がっている。

◇というわけで、今年は色々とひきこもる年になりそう。個人的にも。