web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後5時。喉の剃刀負け、冷えかけの風が滲みる。

◇珍しくひとりで外出。家を出る頃には少し暖かかった空気も、ブックオフからの帰り道には冷たくなりはじめていた。2週間ぶりのひげ剃りで、喉の皮膚が赤くなっている。髪にもバリカンを入れた。15ミリ。妻がやってくれた襟足を撫でながら歩く。

◇先日我が家のポストに、バーガーキングのワッパー半額クーポンが入っていたので、本日のお昼ご飯はワッパーになった。普段あまり外食をしないので、妻とファーストフード店に入ると学生時代のような雰囲気になる。たまねぎやレタスを増量して、かなり満腹。妻は大きなバーガーを食べるのが苦手で、大抵食べている最中にバンズとミートがズレてくるのだけれど、今日はなんだか器用に食べていた。

◇最近特に、自分は父に似て来たと思う。いや、おそらく元々似ていたのだろう。これは結局、似ているところを実感する機会が増えた、ということか。僕はこれまで父の顔を息子の視点からしか見ていなかった。それは家庭の中にいる父、というより彼の顔であり、僕もまた現在、家庭の中に居る自分を否応無しに自覚することになっているということだ。その度に僕は、父と自分が思いのほか似ていることに気付く。反対に考えてみると、父が家庭の外でどのような顔をしていたのか、今の僕から推し量ることも可能かもしれない。
 もちろん僕と父は別の人間であるから、互いに独立した時間を送っていると捉えた方が合理的だ。そもそも類似を認めることができるのだって、それぞれの独立を前提としているからだ。しかし、僕の感じているこの瞬間は、父にとってもかつて感じられていたものかもしれないし、あるいは父にとってこれから感じられうるものかもしれないのも事実だ。そんなある種の期待が、分断と独立がイコールであるとは意味させない。それぞれにそれぞれを歩んでいくという意味で、人生における一定の尺を過ごすという意味で、僕は全く唯一の個人ではありえない。個と全の円環に迷い込むような感覚を覚えると同時に、失笑ともため息ともつかない息を吐いたりした。

◇水泳には行っていない。月曜からずっと風邪を引いているし、それに地元の市民プールは2週間のお休みに入っている。もう泳ぎ始めて半年くらい経つだろうか。こんなに休むと体力が落ちたりしないだろうか。そわそわする。

◇映画は現実だし、小説だって現実。そもそも僕が現実を認識するところから、あらゆるものはフィクションとして読まれ始める。けれども、そのフィクションがフィクションとしてではなく、ありのままにいきなりごろんと横たわっているのを目撃する瞬間というのがある。映画や小説を読んでいるとき、毎日の生活を読んでいるとき、突然顕われるそれは一種のゲシュタルト崩壊みたいなものだろう。丸山圭三郎は動物と人間のゲシュタルトの作り方の違いを、「身分け」と「言分け」という言い方で分けている。「身分け」というのは赤ん坊による乳房とその他のものの区別で、「言分け」というのは、乳房と書けばそれがあの乳房を指していると分かる、という区別の方法である。これは欲求と欲望の違いを生むことになる。言うまでもなく、赤ん坊が乳房を求めるのは生理的欲求によるが、食事の概念を言葉によって捉えると、満腹になった直後から次はあれ食べよう、と欲望を疼かせることができる。これらは、人間の認識能力に、「身分け」と「言分け」の二種類があるということではない。あらゆる身を言葉によって分けて捉えることしかできないという意味で、人間は「言分け」一択なのだ。セックスのことを考えると分かりやすい。生理的欲求であるにも関わらず、そのセックスの置かれる状況によってその興奮や満足度が違うというのは、まさしくそれが欲求ではなく欲望の発露であるということだ。カタルシスは顕在化しなかった深層の言葉の噴出であり、まさしく欲望の発露だが、フィクションを読んでいて突然ぶつかる“ありのままのごろり”とはそのことではない。おそらく「言分け」の方法論の中に入らなかった非・言葉の部分だろう。上で僕はゲシュタルト崩壊と言ったが、これは微妙に違和感があって、単純にゲシュタルトの外側に突き抜けてしまったのだと思う。尚、この非・言葉を丸山圭三郎は「無意識」と呼んでいて、人間が「言分け」を始めた瞬間に出来上がってしまった領域なのだという。

◇ホントすごいわ、これ。
Maya Plisetskaya The Dying Swan 1969

◇僕はかなり記憶力が悪い。暗記が苦手とかそういうことではなくて、あのときの出来事を、かなり事実とは異なった形で記憶している。しかしそれだから僕は現実を生活することをフィクションを読むことだと認識しているんだと思う。