web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後4時半。妻とこたつが寝息を立てる。

◇遅く起きたので、朝昼兼ねた食事をとり、セブンブリッジをした。最近、10回で300点近くついてしまって負ける。満足そうな顔で横になった妻の隣で、僕は先日から読んでいる本を読み返していた。窓の外が雪のせいで薄暗く、電気をつけようと立ち上がったとき、部屋の静けさに気付く。こたつの発熱部分が音を立てている。

◇明日から、また近所の市営プールが営業再開するので、僕の水泳も再開する予定。とはいえ、本日の八王子の降雪量は割と多く、今ふと窓を見ると既に隣家の屋根は白くなっている。このまま明日まで降り続くということなので、雪の積もった道をかき分けながら水泳に行くことになるのかも。

◇明日はまたもうひとつ、ケーブルテレビの宅内工事が行われる予定もある。大家さんが不動産会社と行った取り決めで、この建物の全ての部屋で多チャンネル放送を楽しめるようにするという。もちろん我が家は無料放送しか受信しないが、それでもムービープラスやスーパードラマTV、スペースシャワーなども楽しめるので、なんだか懐かしい。
 僕にもっともなじみのある映画鑑賞方法は、何気なくつけたら面白くてついつい朝方まで見てしまったのだが、はてあの映画のタイトルはなんだったのかな、というもの。例えば『バッファロー66』や『春夏秋冬そして春』、『小さな中国のお針子』、『運動靴と赤い金魚』、『さらば冬のかもめ』などは、後から友人との会話の際に、あるいはツタヤを歩いて偶然タイトルを知ったものだ。僕はその頃、映画はひとりで観るものだと思っていた。
 大学に入って妻と付き合い出してから、誰かと映画を観る、という行為を知った。僕と妻との間には友人であった期間がなく、大学も異なっていて、その意味で共通の話題というものが多くなかった。デートは楽しかったが、特に会話が弾むというわけでもなかったし、ただその場に両者が居るということで成り立っていたのだと思う。映画に出掛ける動機も、なんとなく何かしようといった雰囲気だったのだが、そこでおそらく僕は初めて、始まったら終わりまで途切れない映画というものを実感したように思える。観たい映画も観たくない映画も、始まったらこちらの意志に構わずにどんどん進んでいくし、ひとりではなんともないシーンも、妻がこれをどう観るだろうと考えると集中できなかったりという感覚を経て、それらも映画の重要な要素のひとつであることを知った。
 かつて慣れ親しんだCS専門チャンネルも、これからは妻とともに観ることになる。ひとりで観るものでもなく、映画館で眺めるものでもなく、おそらく妻のリモコン操作に沿った映画鑑賞になるんだろう。

◇まだ手に入れてないのだけれど、丸山圭三郎は晩年に『ホモ・モルタリス』という、ある種文学ともいえる著作を出しているそうで、それを知ってますます僕はこの人に興味をそそられる。言葉より前に名付けられる前の事物があるのではなく、言葉が認識それ自体となって事物を生み出すというのは、勝手に言い換えてしまえば言葉はフィクションを紡ぎだし、そして僕らはフィクションを生きているということだ。つまり書くこととは、世界を読むことそのものなのである。読む=詠む。

◇この時代のhiphop、めちゃくちゃフィジカルなんだよな。いや、ラップがフィジカルなのは当たり前なんだけど、“全身感”がある。
Das EFX - Baknaffek