web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後1時。寒い部屋で電気をつける。

◇妻のいない時間。ひとりPCをつけて持て余す。

◇先週の土曜日から市民プールの営業が再開。先週日曜に1500メートル、水曜日に2000メートル、そして昨日も2000メートル泳ぐ。昨日はアップがてらに市民プールまで走ったのだが、しかしいざ水に入ってみると異様に息が乱れる。水のなかと陸上の動きの違いに、なかなか呼吸が合わせられないでいた。すごく疲れる。それでもインターバルを入れずに頑張っていたら、30往復超えた辺りから急に楽になって、すいすい泳いでいくことができた。水の中のアップと陸上のアップは違うものなのかもしれない。

◇言葉をひとつの器官として考えてみると、身の回りのありとあらゆるものを言葉に変換しながら身体の内側に取り込んでいく様子が思い浮かぶ。だが言葉を持つというのは自分の身体の外側に何かを作ることでもあり、書くことと読むこと、歌うことと聴くことはここでほとんど同時に行われるのである。つまり書くということは、そのまま世界を読む(詠む)ことであり、歌うことは同時に音を聴いていることでもある。ここで大事なのは、書くことと読むこと、歌うことと聴くことが同時に行われるからといって、それらがけして同じものではないということ。それらを同一化すると、身体が消える。「憑依」という状態を思い浮かべるとわかりやすいだろう。自覚的な言葉の使用には、身体への意識を欠かすことができない。
 グルーヴィな動きというのは、中心からズレて戻ってくる動きのこと*1である。狭義には音楽における用語として使われ、拍のリズムを中心に据え、そこから意図的にズラしたカウントで作り上げるノリを指している。広義には、例えば拍のカウントを共有しない状態で生み出されるリズムの快楽ということになる。

この意味においてグルーヴは、そこに一定のリズムがあるか否かとはあまり関係がなく、中心からズレて戻るという要素そのものに快楽がある、という理解になる。グルーヴの快楽は時間の快楽であることに違いはないが、必ずしも等間隔な秒針音を意味しない。歩く、しゃがむなどの日常的な動作を中心に据え、その動きのリズムを脱臼させながら、しかし最終的には歩く、しゃがむという動作を行っている。その一連の動きの連なりの、ズレと戻り。
 言葉の使用も、中心とズレる感覚で進んでいくことがある。書くことは確かに、そのまま世界の認識を言葉にして読むことではあるのだが、しかし当然、あらゆるものが余すところ無く言葉に変換されることはない。そこで、この生じたズレを引きずりながら、引き受けながら次の語を紡いでいく。するとそれは、いわゆる散文という形式になる。この散文の書かれ方こそ、限りなく身体的な記述法だろう。言葉が本質的に孕んでいるこの散文的性格は、言葉が実体化する際に必ず起こり得るノイズであり、つまりそれが僕には大きな魅力に見えている。

◇本日はアラザルMTG。出席できなくてごめんなさい。

*1:たしか、菊地成孔大谷能生アフロディズニー2』にそんな話が