web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前9時。寝床に広がるホットケーキの香り。

◇休日の朝寝坊。朝食は、先に起きた妻が焼いてくれたホットケーキだった。

◇お昼を目処に、二人で花見に向かう。普段歩かない通りを歩きながら、八王子を別の角度から眺める。町田と決定的に違うのは、アップダウンが少ないところ。駅前の高い建物が本当にランドマークとして機能している。
 目的地は、屋台がひしめき合う大きめの公園なのだが、時季や時間帯が早いこともあって行楽客は少なかった。が、お重を入れた風呂敷包みとポットを持ったおばさんなども見かけ、僕のテンションは充分にあがる。花見会場での楽しみは、やっぱり宴会をしている人間を見ることだ。妻とまだ付き合っている頃だが、井の頭公園に花見に行ったことがあって、あのときはひとり場所取りをしつつ結構立派な宴会卓を設営しているおじさんを見かけた。いざ人が集まってくると、会社の同僚らしき人たちにわーすごいありがとうございますーと一応の感謝はされるものの、宴会中はあまり輪に入れない感じの人で、なんだかそれでも満足げだったのをよく覚えている。
 花見も葉桜も紅葉も、僕は普段行き慣れた公園のものを見るのが好きだ。ふと気付くと、ついこないだまでとは違う表情を見せる風景に、自分の時間を勝手に当てはめたりしている。実家の近所の公園のことを思い出しながら、避難勧告があっても原発周辺に残ろうとする人の気持ちをなんとなく想像した。

◇今更ながら、原爆と原発への無知を悔いている次第。
http://video.google.com/videoplay?docid=-584388328765617134&hl=ja#
 核の圧倒的な破壊力を一度でも目の当たりにすると、もう取り憑かれてしまうのだろう。原爆を落とした側にしろ、落とされた側にしろ、そしてそれを眺める側にしろ、自然の猛威に比肩する力を手中にした自分に酔いしれ、ただただ恒常的な興奮状態に陥ってしまうように見える。梶井基次郎檸檬』から一直線に続く爆発の夢。

◇日本に原爆が投下されなければ、原子力発電自体がここまで発達することはなかっただろうという想像は、単純過ぎるだろうか。病的なまでに核実験を繰り返す各国と、原子力発電に桁外れな予算を弾く被爆国の様子に、自然の対象化の完成に鼻息を荒くしている人々の顔が浮かび上がる。音楽をコンサートホールに閉じ込めるように、核を発電所で飼い馴らす。つまり、核エネルギーの電力化は、日常のバーチャル化と見立てることができる。それと同時に起こるのは、非日常のリアル化。今、新幹線の速度を体感したり、夜景に見入ったりする以上のリアルを、原発事故という形で体感している側面はあるだろう。
 津波の映像の恐ろしさは、あちらの風景と思って見ていたものが、段々とこちらに近づき、気付いた時にはあちらとこちらを分けるものがなくなっていること。防波堤を乗り越えて街を飲み込む津波は、初の上映で観客に死の恐怖を与えた汽車を見ているようだ。あちらとこちらは、こちら側から一方的に線引きしたものに過ぎないというのは当たり前のことであり、それはミネラルウォーターのボトルを積み上げて仕切ったところで同じ。ペットボトル入りの水の真横を平然と通り過ぎる野良猫の姿を何度も目撃して来た私達は、非日常と日常などこちら側の見立てに過ぎないことを知っているはずだ。そして、それが見立てに過ぎないということを知った直後から、はじめて日常は自らの手に委ねられ、リアルをその内側に含み込む。
 津波に家ごと流され、強制的に部屋の外に放り出されたひきこもり男性のニュースに感動を覚えるのは、彼のこれからを感じさせるからだ。彼はこれから、部屋の壁とインターネットに頼らず、自らの判断で日常と非日常を見立てていかざるを得ない。そこには、檸檬を書店に置いて立ち去った「私」と、同じ感情があるのではないだろうか。