web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後2時。春の嵐をふたり、窓の外に眺めて読書。

◇まるで晴れの日のような明るい光が差し込んでいるのに、強い雨が窓を叩く。空気は暖かい。昨日図書館で借りて来た本を積み上げながら、僕と妻はトランプをした。僕はぼろ負けした。

◇先週の月曜日はアラザル同人であるやまものグループ展に行って来た→http://d.hatena.ne.jp/yamamomomo5371/20110415/1302170337
 ギャラリーに行ったのは初めてなのでわからないけれども、作家がここまでフレンドリーな展示というのもそう多くはないのではないか。やまもは、相変わらず持ち前の人懐っこさを武器に来場者全員に話しかけ、ひとり最低でも10分以上は話しこんでいた。近藤久志氏曰く、彼は「初対面に強い」。しかしやまもも先生なのか。僕はなぜか照れるようににやけてから、ふと、彼が僕より5ぐらい年上であることを思い出し、はっとした。
 ギャラリーには作家本人が立っているので、すぐに作品についての質問などができる。僕が行ったときにはやまもの他に梅田さんと遠藤さんが居て、彼らの人柄とともに作品を眺めると、色々と改めて納得するところが多かった。彼らの戸惑いや一貫性が割と素直に表現されていて、人間的に好感が持てる。
 あらためてこういった形で絵というものを眺めていると、現実をどう咀嚼するかということと、その咀嚼をどう作品に介していくかということの間にある距離が、作家によって大分違うものなのだということがよくわかる。もちろん、咀嚼と創作は同じものだが、そこに生じるノイズを自分のものだと思うか思わないかの意識が違うのである。ノイズを極力排除しようとするという形で逆説的にノイズを意識させることもあるし、ノイズの存在さえ意識せずにノイズを前景化させてしまうこともある。そしてこれは、ひとりの人間の中でも、時期によって変わっていったりするものなのだろうと思っている。

◇ツタヤが100円レンタルをやっていたので、先週の日曜日にいくつか借りて来た。サム・メンデス『レボリューショナリー・ロード』、アルノー・デプレシャンキングス&クイーン』、ジェイソン・ライトマンマイレージ、マイライフ』など。本当は是枝裕和『誰も知らない』も借りたんだけど、傷がついていてプレイヤーが読み込めなかった。残念。

◇前回ソフィア・コッポラ『SOMEWHERE』を観て腹を立てていたのだが、あの作家がいつまでもヴァージンスーサイズな厚顔さを引きずっているのに比べ、サム・メンデスは成熟を拒否する人々の幼稚さを、冷たい悲喜劇として描いてしまう。『レボリューショナリー・ロード』は、最後の「事件」もさることながら、実はキャシー・ベイツの恐ろしさも大きな見所だと思う。人懐っこい表情と人を拒絶する無表情を唐突に連続させられるこの女優に、中流家庭の狂気、自意識の成れの果て、あるいはそうした中で生きていくための毅然さとでも呼ぶべき何かを詰め込んでしまう。ぜひとも小島信夫抱擁家族』を撮って欲しいと思う。
 森というパワースポットから還って来たケイト・ウィンスレットの、不気味に理性的な仕草もいい。例のシーンは、呑んでいた酒が急激にマズくなるほど不快だったのだが、それは無慈悲な表情で残酷なことをするからではない。彼女のなかでは全く筋が通っていて、そうなることが義務づけられた、ある意味当然の「生理」として描かれるからだろう。

◇ちなみに、是枝裕和『歩いても歩いても』では、『レボリューショナリー・ロード』におけるキャシー・ベイツとは異なる、近代以前からずっと続いていたであろう女性の恐ろしさを、樹木希林夏川結衣の塗りつぶしたような黒目に映し出してしまう。大好きな映画。

◇この流れで観ていると、アルノー・デプレシャンキングス&クイーン』も、どうしてもあの怖い女に注目してしまう。ただし、その女は成熟しているというところが、ケイト・ウィンスレットとも、キャシー・ベイツともまた違うところだった。
 大人になるというのはどういうことか。子供を作れる体を持つことであり、あるいは人を殺せる体力を持つことだと考えてみる。この二つは、実は身体的な側面だけではなく、それをするだけの覚悟や気迫とともに得られるべき能力であるはずだ。体だけ大人というのは、覚悟もなしに人を生んだり殺したりするかもしれない状態なのである。ここでこう言い換えることが可能になる。人を殺すだけの覚悟と気迫を持っていなければ、子供を育てることなどできない。無差別殺人のような、人を人と認識できない殺人などは単にガキが駄々をこねているだけであり、厳密にいえばそれは殺人とは言えないだろう。そうではなくて、人の顔を観ながら、痛みを知りつつ殺すということ。大人をナメてはいけないのはそういうところだ。と同時にそれは、私達が普段愛と呼んでいるものと、私達が普段意志と呼んでいるものとがほとんど違わないということに気付かされる瞬間かもしれない。

ジェイソン・ライトマンマイレージ、マイライフ』は、人の顔を観て、人に痛みを与えながら生きていく男の話である。とはいえこれは天使やら悪魔やらといった超越的な存在を、人間に近い目線で眺める作品といった方がいいかもしれない。要はここまでいくと成熟とかそういう話ではなく、ここまでの流れとは分けて感想を綴る必要がある、ということだ。
 お話を読む快楽の方を、テーマ的なものよりも強く感じてしまう。つまり、一人の人間が異形のものになる瞬間を目撃する面白さ。飛行機や動く歩道、各種クレジットカード、手荷物検査のゲートなど文明の利器の描写によってジョージ・クルーニーの天使性が語られるが、これは普段の私達が手にしている偏在化した神性のことだろう。ユビキタスな神のイメージを、人間の姿形をした天使が回収していく。実は僕がこの作品で楽しんでいたのはそこかもしれない。

◇それにしても、『キングス&クイーン』の、あの面白さはなんなんだろう。上で僕が触れたのは、複数のテーマのうちのひとつだ。この作品では、二つの話が一点で交わりまた離れていくということが、複数の時系列やエピソード、テーマが絡み合いながら、抜群のリズム感で描き分けられていく。目や耳や感情や、映画で刺激されるほとんどの器官が快楽を覚える。このままずーっとこの映画を観ていたい。

是枝裕和『誰も知らない』が再生出来なかったことをツタヤに伝えると、この店舗にはこの作品が一枚しかないということで、代わりに新作でもタダで借りられる券を頂いた。ので、『トイストーリー3』を借りて来た。今日これから妻と観る予定。