web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後6時半。薄暗がり、蛍光灯の紐が揺れる。

◇昼間の散歩は汗ばむくらいだった。帰宅してシャワーを浴びると、窓から入る風が心地よくて、そのまましばらく大の字になっていた。薄暗がりのなか、遠くを走る電車の音や近所の子供の声に交じって、妻が夕飯の仕度をするのが聞こえて来た。慌てて起き上がる。

◇連休中、八王子の古本祭りが開催していたけれど、どうも前より規模が小さくなっていた気がする。あんまり長居はせず、今年は4冊だけ購入。

諸星大二郎を読みながら、自他の未分化な状態、あるいは母胎回帰の欲求のことなんかをぼんやり考えている。『ぼくとフリオと校庭で』には、望ましくない毎日を送る少年が、UFOや宇宙人を待望する様子が描かれる。この少年はどうやら父とふたり暮らしをしているようで、父の仕事の関係で度重なる転校を強いられているのだが、おそらく彼はそこで宇宙人やUFOを待望することによって、多くの他人と出会い、急速に自我を確立させなければならない環境に抗っている。UFOや宇宙人は普通、最大の他者と捉えられるだろうが、母に甘えることもできず、土地に親しむこともできないこの少年にとっては、都合の良いあらゆる期待の回収先でもある。防空壕跡の穴に入り込み、土肌の露わな母胎のような空間(少年はここにビニ本を隠している)を宇宙人の基地だと言い放つとき、宇宙人やUFOは、高度な知的水準を持った地球外文明からの使者でありながら、最も原初的な野蛮さを称えた自然としての異人にもなってしまう。
 ところで、自他を分化させるというのは、フィクションを読むor描く力を備えることでもある。自分の知覚するありとあらゆるものを言葉として捉えるというのは、ありとあらゆるものをフィクションとして編み上げていくことだからだ。母胎回帰というのは、自己と他者をイメージ抜きに一体化させることであり、フィクション化の作業を捨てることでもある。しかし、この少年は果たされぬ母胎回帰の夢を見るというまさにそのことによって、自分を知る友達の中にもうひとりの自分像を作り上げてしまう。つまりその意味においては、この少年は他者と出会ったのだと考えることも可能である。彼に必要だったフィクションが彼を支えるのはもちろんのこと、私達の現実まで歪め、塗り変えてしまう。そして、このこと自体は実際、正しいのである。
 ちなみに、『新潮5月号』に所収の佐々木敦『HERE AFTERについて』では、おそらく佐々木敦本人の体験を元に書かれたであろうお話を、「彼」を主語にして語り続けている、ということもここに付け加えておく。

◇猫はどうやってイメージを作っているのか、こちらで勝手に想像するだけでも結構難しい。犬同士のやり取りだったら、より会話らしくなっていたかもなあとは思うけれど、これは相槌をやり取りしているだけにも見える。老夫婦の会話のような。