午後5時半。遠くを電車が走っている。
◇窓を開けて風を入れながら、電気を点けるか迷っている。ビールを呑んでいるけれど、少し涼し過ぎるくらいだ。
◇先週に引き続き、水泳は45分1750メートル。あと5分で5往復すれば2000メートルと思うと悔しいけれど、思ったより早く震災前の体力に戻れる気がする。以前は週2回通っていたのが週1になったのだから、週末にまとめて2時間泳ぐのもありかもしれない。
◇水泳から帰ると、妻が早くモスバーガーに行きたいと言う。『スッキリ!』という平日朝のバラエティ番組とコラボしたバーガーが食べたいそうだ。水泳直後の空腹には少し足りないかなあと思っていたけれど、いざ食べ終えてみると充分な量。ぬたを思わせる味噌を使った和風甘辛ソースが非常に美味しく、日本酒に合いそうだった。しかしやっぱり、イメージの上の食べられる量と、実際に食べられる量との間にはまだまだ大分開きがある。先週程ではないにしろ、昨日も妻の実家で食べ過ぎてしまう。
◇食後に八王子の街をぶらぶらしてから帰宅。髪が伸びて来たのでバリカンで15ミリに刈る。アタッチメントの設定値が長ければ長いほど、襟足やもみあげが切り難いもので、襟足に関してはいつも妻にやってもらっている。学生時代、髭を剃ってもらったときに剃刀負けしまくったことを思い出しながら、しかし手つきは荒いけれど器用なのだなあと思う。
◇本日は文学フリマにて『アラザルvol.5』初売り。
今後、書店を中心に配本する予定(なのかな?)。僕はvol.5に『ラッパー宣言』の第二回を載せたけれど、あいにく文フリに行く服がなかった。
◇ラップとポエトリー・リーディングはやっぱり別物だろう。そんなことをなんとなく考えているのは、江藤淳『生きている廃墟の影』を読んだからだ。読み進めるうちにここで語られる散文というものがどうしてもラップに見えてきて、詩の主役は言葉であり、ラップの主役はラッパーである、といった置き換えをしたくなる。この流れでポエトリー・リーディングのことを考えてみると、朗読者はどうしても言葉に支配され、憑依した状態になるか、自分という存在を可能な限り消さざるを得なくなるのかもしれない、と思う。つまり朗読者の自我が無いものとされる。
詩はある種の呪術性を持っていて、言葉の記号的機能を取り去り、むき出しのモノそれ自体に還元してしまう。遠くの津波は言葉として抽象化されたままの津波だけれど、今まさに自分を呑み込もうとしている津波はもはや記号にはなり得ない。その体験以後、津波という単語を発声するときには、あの津波そのものがまさに目の前に立ち顕われることになる。忌み言葉や言霊などは、まさにこのような記号ではないモノとしての言葉のことであり、詩的な言葉とはこういった霊性を備えた言葉である。もちろんこれは理性的ではない。人間は言葉によって自と他を区別してイメージを作ることができるが、このような詩的な言葉では自と他を分けることができない。
ある種のポエトリー・リーディングを聴いていて苦手に思うものがあって、それは詩の持っている同一化の力と朗読者の自意識が最悪な形で結びつくケースである。詩の全篇に渡って「自分」を刻み付けようとするところにはおそらく、この言葉は俺だけのものである、この俺の言葉を一言も漏らさず聴け!といった自分への同一化を求める姿勢がある。見られたい自分を相手に強要する姿勢であり、自意識に悩んだことのある人間の個人的な好悪を言ってしまえば、これが苦痛でないわけがない。一方ラップを聴いていてあまりこういう圧迫感を覚えることがないのは、自分の体外の要素を操ることに主眼が置かれているからじゃないかと思う。もちろん見せたい自分はあるだろう。しかしそこで使用される言葉は日常会話の用語であり、発声によって放たれた音はグルーヴとなって社会性を孕む。既成の言葉を受け取って編み直し、社会的なものにして返すという意味では日常口語と変わらない。言葉とラッパーはどこまでも独立した関係を保ち合い、同一化を避ける。
しかし当然、日常会話に使用するときよりも強く意識されている言葉の側面はある。発話に伴うリズムのことである。既成の言葉を編む、それを再び提出する、という作業の主体は話者であるが、ラップの場合、話者であるラッパーは言葉の音に注目し、そこから丁寧にリズムを抽出してグルーヴに変換する。音楽と言っても良い。ただし、この場合の音楽とは、圧倒的な非日常や忘我を保証するものではなく、日常の生活サイクルに組み込まれたものである。詩は人間の身体を媒体として現れる神の言葉だが、ラップはそれを語るラッパー自身の発言の記録である。つまりそこには理性と責任があり、常に倫理がつきまとう。
またこれは、言葉が本質的に伝わることは極めて稀である、というところまで射程に含んだ倫理のありようでもある。私達は普段の生活のなかで、論理的なものが必ずしも説得力と比例するわけではないということを知っている、いや、というよりむしろ言葉の意味が伝わることなどないとさえ思って暮らしている。言葉の意味を理解することが理性的であることだと勘違いをしてしまうと、この状況に無力感を覚え、理性を投げ出して超越的な何かを求めることになるかもしれない。しかし理性は意味の伝達のみを前提にしているわけではない。言葉は意味を伝達するものとしてはあまりに不安定であり、実質的に人を説得するのはリズムや声の要素に依っている場合が多い。そうした言葉の活用法の全てに考えるを巡らせる力が理性であり、そしてまた常に不安定に揺れて伝達が難しい言葉に、創造的に耳を傾けることが倫理なのである。詩の朗読が憑依を伴ったり、同一化によって朗読者の自我を取り払う類いのものであるならば、ラップは極めて人間的な、つまり理性的な言語芸術なのではないだろうか。
◇安心のラインは自分で決め、落ち着くべきときに落ち着き、慌てるべきときに慌てることができるようにする。妻がぽつりと言う。