web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

昨夜23時。酔いつぶれの携帯が鳴り続く終電。

アラザル5の献本作業を終えた、帰宅途中の夏の風景。

◇いつものように僕より早く起きた妻は、いつものようにまだ寝ている僕に向かって、お構いなしに話しかけていたらしい。僕は寝惚けながらも、今日は水泳に行かず、蛍を見に行くんだと答える。蛍を観るのは夜なのでプールの時間と被らないよと妻は言うが、それでもいいや、今日はプールに行かないと頑として譲らないそうだ。朝食の最中にその話を聞いた僕は、窓の外の曇り空を眺めながら、なんとなく今日は泳ぐのをやめようかという気分になっていた。

◇『未知との遭遇』を観る。最初から最後まで観るのは初めてで、記憶の中で『コクーン』やら何やらと混ざっていたことに気付く。
 『E.T.』の一家には父親が居ない。『未知との遭遇』を観ながら、勝手に不在の父の物語として見立ててしまった。主人公の男を演じるリチャード・ドレイファスは『アメリカン・グラフィティ』からの繋がりも感じさせる。『アメリカン・グラフィティ』で途方も無く広がっていく現実を車窓の風景に変換しながら眺めていた青年は、そのまま『未知との遭遇』で鉄道模型に熱中する父親になり、果ては取り憑かれたように謎のジオラマ制作を始める。それに愛想をつかして出て行く母親の連れ子が、『E.T.』における子供たちならば、E.T.が単にエリオットの友達である以上に、父親的な振る舞いをしていたことが一気に思い出される(そして、『未知との遭遇』で父のジオラマ作りに協力的な息子が一人居たことも併せて思い出す)。その見立ての先には、『未知との遭遇』と『E.T.』のラストシーンの違いが、父殺しの変奏であるように読むことも可能になる。
 UFO少年は、居心地の悪い現実を逃れて宇宙のどこかに居場所を求める。自分に都合良い解釈を当てはめる先に超科学を持ってくる。諸星大二郎『僕とフリオと校庭で』には、自分は宇宙人だと言い張るフリオという少年が登場するのだが、いつかUFOが迎えにきて、自分と父親をほんとうの場所へと連れ去ることを願うのである。どうやら彼は父子家庭であるらしいのだが、UFOは自分だけを連れ去るのではない、自分と父親を同時に連れ去るのである。
 母親と子供には出会いというものがない。出会いとは、それぞれが見知らぬところで存在してそれなりの時間を過ごしたのち、ある一点で交わることだからだ。父と子は、互いに人生の途中から出会う。つまり父親は、子にとっての最初の友達になるかもしれないのである。ビールを呑んで酔っぱらったり、無茶な冒険をけしかけたり、そしてまた、なんだか異様に老けたルックスのE.T.を見ていると、そこにダメな父親の姿が浮かび上がってくる。とはいえ、仮に父と子が友達になったとしても、同世代のそれより遥かに確実に見えてしまうものがあって、それはつまり別れである。父と子は、確実に別れる。しかし別れは、自分自身の輪郭を強く意識することによって孤独に耐えうる個人を生む。別れ、つまり埋め難い距離が自分自身の言葉になるからである。『E.T.』のあの虹は、エリオットが描いたものなのかもしれない。

◇途中から『E.T.』の話にすり替わってしまったが、おそらく『未知との遭遇』には、もう少し恋愛や母性をも含み込んだ交流がある。父と子には出会いと別れがあると書いたが、母と子の場合、それは両者が同時に同様に経験するものではない。母は子と出会うが、子は母と出会ったと思わず、子は母と別れるが、母は子と別れるとは思わないだろう。母と子には出会いがないと書いたのはそういうことで、おそらくそれは引き継ぎといった方が近いかもしれず、別の意味で孤独を超える。
 ところで、UFOとの交流における音楽や手話という言葉は、それ自体は極めて理性的なものであり、その意味では宇宙そのものと地球人の交流というよりは、宇宙という世界の中で起きた、地球民族と他民族の交流くらいに読んでしまえるかもしれない。言葉がモノを変換したものであるという前提に立つのならばそれはある意味では納得可能だと思う。しかし、シンセサイザーを使ったUFOとの会話(音楽)が、言葉に変換される前から横たわっている言葉、ともいうべき感情に触れているような気がするのはどういうわけか。つまり、あの音楽のやりとりこそが『未知との遭遇』の瞬間そのものに見えるということである。

◇あと『トイ・ストーリー3』の猿の元ネタって、『未知との遭遇』だったんだな、と初めて知った。もしかしたら赤ちゃんの人形もそうなのかな?

◇何度観ても笑う。猫かぶりやがって。

◇生まれて初めて蛍を見に行く。よみうりランドに行ったのも多分初めて。蛍の鑑賞を目的とした催しなので、陽が落ちるとそのまま素直に暗くなる。子供たちは明るさに関わらず芝生の上を駆け回っていて、歓声がよく響いていた。
 見えたらラッキーなのかな、というくらいの期待で出掛けたのだが、思ったよりも沢山の光を見かけることになった。園内に豆電球を仕込んでいるんじゃないかと思うくらいはっきりとした光で、幻想的というよりは人工的なほど。しかし近くを飛んでいる蛍をよくよく観てみると、おしりを華やかに点滅させながら、黒いからだを無愛想にごそごそさせている。不思議だが、なんとなく納得のできる仕草を観た気がした。

佐々木中『この日々を歌い交わす』に磯部涼との日本語ラップ対談が載ってるそうなので、アフリ貼って自分で買う。