web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後6時。昼寝をし過ぎて、なお暑い。

◇夏の昼間はよく眠る。窓を通る風が汗ばんだ肌を撫でるので、ついつい長寝になる。今年はクーラーを取り付けてはみたものの、妻曰く「クーラーを入れるタイミングがわからない」。暑さに気付かないせいで熱中症になるのも怖いので、意識的に水分を摂るようにはしている。が、やっぱり、少なくとも、今年はまだ苦痛に感じるほど暑い日は来ていない。目を覚ますと、西陽はまだまだ部屋を照らし続けている。

◇市営プールに行くと、利用者多数のため入場制限がかかっていた。震災後、営業時間が短縮されていることも影響しているのだろう。午後に出直そうか迷ったけれど、昼間のビールの誘惑に勝てずに行かずじまい。結局本日の外出といえば、19時になってやっと陽が落ち始めてきた頃、ドンキホーテまで妻と散歩に出たのみであった。

◇ヒップホップとラップは違う、ラップは単に歌唱法を指すに留まり、ヒップホップは文化全体の総称である、といった見解は、もう大分広まってきたんじゃないだろうか。この見解自体に全く異論はないが、するとラッパーというのは一体何なのだろうという疑問も浮かびそうではある。ラッパーはつまりラップをする人という意味だけれども、その割にはラップをすれば即ラッパーというわけではないらしい。ラッパーを名乗るということは、もっとヒップホップそのものに深くコミットしているようなニュアンスが込められている。
 例えば初めて日本で享受されたラップとは、英語のラップであった。ラップといえば未だにアメリカが本場であるかのようなイメージが持たれるほど、英語とラップの関係は深く結びついている。確かにラップは、言語の音声に音楽的な処理を加えることによって成り立つため、アメリカで先行しているそれを解体して分析する際に、言語の違いは大きな壁であるかのように思われていた。かつての日本語ロック論争が思い出されるが、おそらくこちらはそれ以上の困難を孕むように感じられただろう。
 結果から述べると、それはもうほとんど問題視されない状況にある。まず英語ラップが解体され、次に日本語そのものが解体され、最終的に日本語とラップを組み合わせることに成功する。今の日本語ラップは、話し言葉の徹底的な解体と再構築の結晶である。この作業の果てに残るものは、いうまでもなく個人的な身体そのものである。
 少し具体的に書くとこういうことになる。日本語は母音+子音で成り立つ50の音を使用すると思われているが、それは便宜的な理解であって、実際に厳密に口語を分析すれば、より豊富な音を持っていることに気付く。ひらがなを覚えたての頃、文字で音を表そうとするときの違和感を思い出せば納得しやすい話だろう。今の日本語ラップは、日常口語をそのレベルで分析し、微妙な差異を聞き分ける耳を駆使して、多彩なグルーヴを孕むリリックを書いている。そしてまた、これは個人の口語使用の癖まで視野に入れるため、仮に同じリリックでラップをしても、ラッパーによってグルーヴが異なってくるような代物になる。書き留められたリリックは、どこまでも個人的な楽譜だと言える。このような手続きを経ながらラップをするということは、元々体外にあるはずの言葉のひとつひとつを、丁寧に血肉化していく作業に他ならない。
 ヒップホップが文化であると言うとき、あるひとつの共同体が独占的に所有する類いの文化とは少し異なっている。この文化は、言葉を覚えるより先に個人の内に蓄えられた集合的な無意識から立ちあがる現象などではなく、自と他が意識的に一対一で向き合い続けることでようやく成り立つ。だから、アメリカのラップも、日本語ラップ、UKラップ、ラップ・フランセ、ダンスホール・レゲエ、その他まだまだ多くの言語で日夜行われているラップの、ひとつの技術的な方法論に過ぎない。レコードの音を解体し、ブレイクビーツの上で語りのグルーヴを展開する、というヒップホップ・ミュージックの基本的な態度自体、土地性に回収されない音楽と個人の関係を象徴しているように見える。話者の文脈に絡めとられない、都市の音楽。

おそらくラッパーとは、ラップをする人であり、ラップをし続ける人である。言葉と自分の間に連続と断絶を同時に見出し続け、その運動をダンスとして提出する。

◇土地性に括られない、文脈に絡めとられないとはいえ、ヒップホップの人たちって地元をレップしたり、ポリティカルなトピックやラッパー間のビーフがテーマになったりしますよね、という反論も予測される。けれどもこれは、ヒップホップというフレーム自体がそのどこからも自由であるために、逆説的に個人の問題を雄弁に謡い得ている、ということの証明でもある。そして、ラッパーが個人としての振る舞いを謡うということの倫理の問題も非常に重要な話題なのだけれど、これについてはまたいずれ整理してみるつもり。

◇『super8』、思い出せば思い出すほど諸星大二郎だ。特に『ぼくとフリオと校庭で』なんか、物語の進行も一部ほとんど同じなわけで、そうして比較してみると描き方の違いが明確になって面白い。川に向かって石を投げるフリオは、防空壕跡に潜ってまた出てきた(童貞を捨てた)フリオであり、お父ちゃんと一緒に帰るフリオは、おそらく童貞のままなのだろう。父に守られているうちは、童貞喪失など出来ないのは言うまでもない。『異界録』における「玄牝(ゲンピン)」もそうで、最終的にあの話では父が死に、息子が再生する。玄牝は『super8』における地底のあれのことだが、『異界録』で父が穴に潜って玄牝と論争&決裂するのに対し、『super8』の方では、息子があれと論争し、さらに説得してしまう。こうしてみると、この2作品はきれいにバトンを繋いでいるように見えるわけで、つまり言葉を父の領域から引きはがして自分のものにすることが、少年が大人になるということなのではないか、ということである。そこで得た彼らの言葉とは何か、ということについては、先週のエントリに書いたので割愛する。