web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前8時。夏の暑さに揺れる夢の後先。

◇昨夜は少々寝苦しく、いよいよ夏がやってきた感じ。しかしその分睡眠が深いのか、楽しみにしている休日の朝寝坊もままならず、スッキリと普通の時間に起きる。目を覚ますと、昨夜は別室で寝ていたはずの妻が横に来ていた。

◇毎週末は妻の実家で夕食をごちそうになっているのだが、この連休中は僕の実家にも行くことに。土曜が妻の実家、日曜が僕の実家というスケジュール。自分の実家に行くのが嫌で、いつも妻に駄々をこねているのだが、しかしそろそろ出産準備に入る段階。そろそろ行っておかないとダメだろうと腹を括って出掛けた。帰宅したときにはぐったりとしたが、まあなんとかやり過ごせただろう。
 形式的な行事にどうしても形骸化の雰囲気を感じてしまうという母の姿勢を見ながら、やはり彼女には定住者的な気質が薄いのだろう、ということに気付く。年中行事は、自分と土地との関わりに対して断絶を試みる作業だが、しかしそもそも常日頃から土地と自分の間に距離を感じている人間にとっては、断絶も何もあったものではないのは当然のことで、すると断絶とともに連続、つまり伝統や歴史という意識からも離れていく。個人という意識が強くなる。僕の実家がクリスチャンであるというのも、おそらくこれと無関係でない。
 しかし、個人であり続け独立し続けること、そしてそれに耐えることは並大抵のことじゃない。昨日は日曜日だったこともあり、母の希望で教会に行ってきたのだが、やはり教会員の多くはそこで共同体の内側に入ることを望んでしまう。そこでの信仰とは、神と自分を一対一の関係に向き合わせるものではなく、人と人との連帯を強めるためのものに成り下がる。実利的な側面を持って奇跡を語ることや、聖書の一節を文脈から切り離して引用してしまうことは、とても人間的な行為であり、それに対する無自覚が堕落を招いてしまうという難しさはある。
 こうして個人と歴史は何か別の独立した存在であるかのように思われるだろうし、そこでは歴史の中に取り込まれるというイメージが可能になって、ついついそれを望んでしまうのだろう。歴史的な瞬間に立ち合おうとやっきになる姿勢ほどナンセンスなものはないけれど、多分いまやほとんどの人が孤独を直視しようともしない個人となって、歴史に名を刻むような人生に多かれ少なかれ幻想を抱いているように見える。
 自分の言葉で喋ればいいのに。ラップすればいいのに。他人のものとしか思えなかった歴史や物語、つまり死んでいた言葉を、生きているもの、自分のものにするためには、発声によって顕れる言葉のリズムを受け取って、そこに乗ればいい。シンプルなことだと思う。

◇休憩。ちょっとビアガーデンへ。

◇てなわけで、今週も水泳には行っていない。せめて平日に泳げたらいいのだけれど、しばらくは無理なんだろうな。週末を逃すと一週間泳げない。

◇映画に対して何か過剰な意味付けと期待を込めて評価をするのは、あまり好きではない。映画は少なくとも映像であって、映ったものと自分との間にある距離を言葉にしていけばいいのであり、映画全体を指して優れているか否かの判断を下すことはほとんど無理なんじゃないかと思っている。

物語と映像、音楽と映像はそれぞれ別次元に存在する言葉であり、それらが動的に絡み合いながら展開していき、最終的に見せられる映像それ自体が、多分映画と呼ばれる表現のなかで起こっている出来事なんだろう。『マルホランド・ドライヴ』のこのシーンが、そうとしか見えなくなってしまった僕がいる。

◇個人的に信用できるhiphop関連の記事などを集めておきたいと思って、こんなアンテナサイトを作ってみた。→http://rapantennaprivate.blogspot.com/
ツイッター上で非常に参考になる意見をツイートしてる方も多いので、ツイッターアカウントもリンクさせたいなあ。