web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前11時。横寝する。祭り囃子が練り歩く。

◇涼しい風が吹いていた。3階の窓は曇り空を映し、畳の上で僕は妻とダラダラしている。アナログ放送が終了なのでテレビを点けてアナログに切り替えておく。わっしょいわっしょいというかけ声が右から左へ移動して、犬が興奮気味に吠えた。

◇昨夜も、妻の実家からの帰りに八王子の放射線通りを少し歩き、神輿の前のお囃子を聞いた。街角ごとに違う神輿とお囃子が聞こえる様子が、行ったことのないジャマイカサウンドシステムを思わせる。高校時代を少し思い出しながら、妻と買い物の話をして歩く。中止になった八王子祭りの、代わりの催しだったらしい。

◇今週末も水泳に行っていない。しかし実は来週は平日に行く充てがあるのだった。

◇ジョージベンソンの『Breezin'』は、中原昌也『誰が見ても人でなし』の中に度々登場するのだが、同時に思い出すのはスチャダラパー『彼方からの手紙』の冒頭部分にサンプリングされていたということ。なんだか浮世から切り離されるようなイントロだけれども、『彼方からの手紙』はそのイントロのイメージを広げていく。

 スチャダラパー『彼方からの手紙』をかつての日本語ラップの文脈*1で汲み取るならば、「そっち」というのはアメリカのヒップホップ、つまり語るべき不幸を抱えた場所であり、不幸のない「こっち」にはラップする必然性などない、という意識が垣間見える。最初は「そっち」こそがここではないどこか=彼方であるのだが、しかし考えを巡らせるうち、ぬるま湯のような「こっち」こそがまさに桃源郷=彼方なのではないか、という逆転が起きる。夢や希望という対象を持たずとも暮らしていけるのは、理想的な幸福が既に訪れているからではないだろうか、と。
 『誰が見ても人でなし』は、『ニートピア2010』という作品集に所収だが、まさにこのニートピアなる言葉が体現する通り、居心地が良いのか悪いのかわからないまろやかな現実感、あるいはあらゆる出来事をフィルターひとつ隔てて享受するような、浮世と断絶された空間に放置される感覚を全開にする。確かにこれを疎外感と呼ぶことはできるだろう。しかしここには自分を疎外する集団への憎悪はなく、というよりも明確に疎外する集団もないままに自ら疎外されるのであり、ある種の達観とともに迎えられている。そして、そこでは社会のあらゆる出来事に揺るがされない自己が発見される。断絶を挟むことによって、同時に連続を感覚するというのは、言葉の持つ本質的な役割である。スラッシュで区切られた大量の文字群が奇妙なグルーヴを持つこの小説の文章自体にも、それは明らかに反映されている。
 瀬田なつき監督は、スチャダラパー『彼方からの手紙』を本歌取りする形で、同名の映画を撮っている。浮世と常世の狭間に立った青年と少女が、あらゆる出来事を自室の外に感じつつ踊るシーンが圧巻なのだが、そこで流れる曲が木下美紗都『彼方からの手紙』であり、これを収めたアルバムのタイトルが『それからの子供』である。

タイミング的に、どうしても東日本大震災や福島の原発事故を連想されがちではあるが、このタイトルはそれ以前から決定していたものだという*2
 子供というのは一種の言葉のように捉えられるだろう。その存在を確認することは、自と他の間にある断絶と連続の両方を確かめることになるからだ。この断絶と連続は、受動的に自然発生的に起こることなどあり得ず、能動的に見出していくことでようやく成り立つ。そして言うまでもなく、こうした能動的な作業は繰り返し続けられていくのである。再びここで『Breezin'』を聞いてみれば、あのイントロの後に刻まれていく音楽の、シンプルな、しかし強靭なグルーヴに耳を澄ませることができるだろう。『それからの子供』とは、つまりここで刻み紡がれていく音楽のことを指しているのではないだろうか。

◇断絶と連続は、切断っていう作業がなければ生まれない運動で、言葉は常にその上に成り立っている。虹をいくつの色に分割するかは文化によって異なり、その上で虹自体をどう切りとって語るかが個人に委ねられている余地。この二つのどちらが欠けても、言葉を持つことができない。日本語でラップをするときには、まず言語的・音的なトラック(時間・空間)の切断方法があり、その文法を駆使して個人のラップが展開する。
 ヒップホップにおける「フレッシュ」っていう言い回しは、切り取り方の妙を見せる、という意味なのだけれど、これはおそらく、個人的なラップの中で斬新な日本語の使用法が発見されたときに使われているような気がする。つまり、日本語がラップの上位にあるわけではなく、ラップの側から日本語の方を変えてしまう事態があるということ。文化が個人の上位に置かれるのではなく、文化と個人が相互補完的に成り立っている状態を指して、生きている文化と呼ぶ。

◇正午、アナログ放送終了の瞬間に立ち会ったけれど、結局何も変わらなかった。アナログに切り替えていても、デジタルチューナーのついているテレビならば、もうアナログ波は見られないということだったのかな。この辺の話が根本的にわかっていない。

27時間テレビを、ラスト一時間くらい見ていた。
 かつて、芸人が苦労話を語ることは、それが笑いを取れるものである以外、厳禁だった。不幸の影を芸人に見出してしまえば、視聴者は手放しで笑うことができなくなるから、という理屈は充分納得できるし、少なくとも今でも多くの場面ではそうなんだと思う。でも僕が今回、あるいは最近のナインティナイン周辺の様子を見ながら思ったのは、視聴者の成熟とそれを支えてきた彼らの努力だった。
 今回の物語に付随する感動は、笑い+感動という島田紳介的な方程式とは全く違う。この方程式の弱点は、テレビに映ったものは全てが真実である、という虚実の舞台設定がすごく強固なところで、そこに乗れない人には、どうしても胡散臭い陳腐な物語に見えてしまう。今回も、やろうと思えば今年の3月11日に起きた震災ネタをダシに、いくらでもそういう物語にすることはできたはずだが、最終的に彼らが紡いだ物語は、岡村と矢部の、そして彼らを支える仲間たちの小さな物語だった。震災というあれだけの大きな物語ネタを前にしながら、なお個人的な物語を紡いでいくのは、ものすごい挑戦だったんじゃないかと思う。果たして僕は、やべっちのマラソンや岡村の涙に、ものすごくストレートに泣けてしまうのだった。
 ここでの虚実の線引きは、テレビの側から強制的になされるのではなく、視聴する側の読解に委ねられているんだと思う。岡村の表立って語られない「休養」の話も、表立って語られないままに、しかし了解事項として広く受け入れられ、彼とその仲間たちの行動は、視聴者の側から読まれていく。もちろんこれはナインティナインとその仲間が積み上げてきたものだろう。天才的な芸人がひとりで築き上げる文脈とは異なり、個々の芸人の、あるいは個々の芸人につきまとう価値観が相対化されたまま、文脈が出来上がっていく。加藤浩次が毎朝のバラエティ番組に出たり、有野がコアなゲーム番組に出たり、それぞれがそれぞれにアイコン的な立場を担いつつも、しかしめちゃイケとしての顔と振る舞いが、しっかり確保されている。視聴する側は、単一でない芸人の顔を、同じテレビを通して見つめることができる。
 大相撲が八百長問題に揺れたり、レディ・ガガのおよそ非日常的なルックスがそのまま日常の延長上に設定されたり、あるいは脳性マヒブラザーズというコンビが一部で話題を作ったり、まあそういう例は枚挙に暇がないけれど、もはや虚実を設える舞台など無限にあるのだ、ということが徐々に、しかし確実に前提として機能しているんじゃないか。そういう希望めいたものをしっかりと見ることのできた、今回の27時間テレビだったように思う。おそらく同時多発的に起きた運動のひとつではあると思うけれど、彼らのやってきたことがその一側面をしっかり支え、形にしていることに爽やかに感動する。

*1:ここで「かつての」としたのは、今や日本語ラップは、これまで無視されてきた日本社会の隠れた声としても、しっかり機能しているからだ

*2:ポッドキャスト番組『windandwindows』7月1日配信分より