web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後2時。水風呂に浸かると、雷の音。

◇天気予報によると、昨日よりも気温は2度ほど下がるが、湿度は上がるという。汗をシャワーで流して水風呂に入る。小さな窓を開けて、風呂場の湿気を外に逃がすと、遠くで雷が鳴っている。

◇昨日金曜日は夏季休暇を取り、妻と一緒に病院に行ってきた。行き帰り、我が子は妻の胎を蹴ったり押したりして、妻はその度にくすぐったいとけらけら笑っている。エコー写真を見ると、我が子はとても悪戯をするようには見えない顔をして、すましたそぶりであった。

◇病院から帰り、せっかく平日なので水泳に行くことにした。結果的には50分2000メートルだったが、平日とはいえ子供達は夏休みだし、お盆休みをとってる人も多いのかもしれない。結構混んでいた。

◇昨晩放映されたNHKの『追跡AtoZ』という番組では、原発作業員の人員確保について取材していた。西成地区から作業員を募り、3次下請けの会社を名乗って働かせているという。えげつない冷たい現実を知らしめる素晴らしい取材であったが、それを見ながら思ったのは、ここに新しい問題はない、ということだった。原発事故をきっかけに、明るみに出てしまった問題があるだけだった。
 原発事故によって何か決定的に変わったことはあったんだろうか。原発事故というのを個別の問題に矮小化すれば、自分たちは何も悪いことをしていないのに、東電のせいで安全・安心が崩れた、という認識になるだろう。それは確かにその通りなのだが、仮にこの事故が収束し、放射能の恐怖がなくなれば、元の平穏な生活に戻れるのだろうか。そもそも、元の生活は平穏だったのだろうか。
 ロンドンの暴動についてもほとんど同じことを思う。暴動を個別の問題として見れば、モラルのタガが外れたまま暴れ回る群衆が悪いのは一目瞭然だろう。しかしそこで、彼らを制圧して早く元の平穏に戻ることを願うならば、それは自分の安心・安全のために、誰かに不幸な状態に押し込めることを意味する。
 原発事故も、ロンドン暴動も、それ自体が何か決定的に新しい問題を生むわけではない。それの以前と以後で何かが変わるとしたら、普段見え難い場所にあった諸々を知るきっかけを得た、ということである。こうした問題に直面したとき、これまでの無知を恥じる人と、自分は永遠に間違えない人間であると言い張りたい人と、大きく分けて二つに分かれるようだ。後者はおそらく、間違えないことに価値を見出しているのではないかと思う。彼らはこれまでも、これからも、永遠に間違いなど起こさずに生きることが至上の価値であるから、知らず知らずのうちに加害者になっていたという現実を受け入れられない。ある者は東京電力や暴徒という、顕在化した加害者を執拗に責め、潜在的な加害者など居なかったことにしようとする。その事実を知り得なかった自分はむしろ被害者であると主張する。曰く「自分は何も悪いことなどしていないのに」。皮肉なことに彼らがそう主張すればするほど、その顔は思考停止した電力会社の幹部たちや暴徒たちの顔に驚くほど似てくるのである。
 彼らからごっそり抜けているのは、自分は変化し得る存在である、という自覚ではないだろうか。生きることが既に動くことを前提としており、つまり動くというのは変化をすることである。そこには、一瞬前の自分を否定して更新していく作業がついてまわる。それを理解できない、理解したくない人間は、そもそもからして生きてはいないのだろう。
 無知を恥じることは、賢くあろうとする意志の発露であり、変化への希望なのだと思う。確かに、過去の原発への消極的な支持を今更恥じようと、もはや事態は手遅れであることに間違いはない。だが、そこでは確実に自分の変化を認めることができる。まだまだ変えていくべきことが多いということに、悦びすら見出してもいいんじゃないかと思う。

◇それにしても、原発事故以後、終わりなき日常と変わらない日常の混同は、笑っちゃうくらい甚だしかった。終わりなき日常とは、変わらない日常のことではなく、どんな変化も飲み込みながらひたすら続いていく日常のこと。はしたなく興奮したまま垂れ流された言説よりも、もっとずっと逞しく恐ろしい話。

◇一言付け加えなければいけない。僕は大衆が嫌いで、ロンドンの暴動は見ていて気分が悪い。外国人参政権のデモで日章旗を燃やす左翼の日本人青年たちや、韓流フジテレビデモで君が代を歌う連中、原発反対デモでファックバビロンだけ言いたい奴ら…、枚挙に暇がないけれど、馬鹿がはしゃぐ行為ほど醜いものはない。馬鹿じゃない人間など居ないのだから、大衆の力など信じられない。昔のパンクには主張があったけどこの暴動には主張がないからダメだとか、何もかも意味の破綻したことを言ってる奴を見かけるけど、主張があろうとなかろうと、暴動は全部ダメだろう。
 ただ、暴動そのものが孕む、無秩序や暴力の高揚は、ある種の表現力を持ち得るのも事実。そもそも表現というのは非社会的(反ではない)なもので、整然とした街が燃え上がり破壊される様子に美しさを見出したとしても、それは全く矛盾するものではない。あの酷い暴動見てグライム聞けなくなった、とか言う必要はない。もしそれがあるとしたら、自分がグライムから現実と遊離した怒りしか感じられなかったか、あるいはグライム自体が怒りと無縁な表現しか出来ていなかったか、である。

◇話逸れるけど、グライムってヒップホップとは別モノらしいね。イギリスの音楽って昔から、なんかすごく細かい差異にこだわる気がする。ビッグビートとか2ステップとか、素人耳にはブレイクビーツじゃいけないのか、って思ったりしちゃう。