web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後9時半。ひとりの帰宅、涼しい部屋。

◇妻が臨月に入る。産前産後は妻の実家にお世話になるので、今日はその準備でバタバタとしていた。義父母と一緒に食事をして帰宅する。虫の声がやけに大きく、たまらなくなって妻に電話した。我が子は元気に動き回っているという。

◇産後は何かと外食がしづらくなるということで、昨夜と今夜はここぞとばかりに外食した。といっても昨夜はラーメンで、今夜は義父母とともに回転寿しである。ラーメンはにんにくを入れ過ぎて、寿司も食べ過ぎた。張り切り過ぎだと思う。妻はどちらもほどほどに食べ、満足そうにもう外食に思い残すことはないと語った。

◇水泳は45分2000メートル。ちょっと速くなったのは、昨夜にんにくを大量に食べたからかもしれない。

デビッド・フィンチャーソーシャル・ネットワーク』をようやく観た。
 随分と童貞な映画だった。何しろ主要な登場人物のほとんどが童貞で、やたら金のかかった、規模ばかりでかいガキの喧嘩を見せつけられるのである。でも、ハーバード大学のやたらと頭のいい童貞、つまり童貞のエリートたちが繰り広げたサービスだからこそ、世界中の童貞を巻き込んで、あれだけ大きくなってしまった、という意図も汲み取ることはできる。
 まあそんな意図は少し気にする程度に留めておくとして、僕が個人的に気になったのは、マーク・ザッカーバーグの親友エドゥアルドだった。この騒動の主要なプレイヤーのなかで唯一、彼は童貞でない側面を見え隠れさせている。
 と、その前に、先ほどから童貞童貞と言っているけれど、僕はこれを少なくともセックス経験の有無だけを基準にしているのではない。世界を自分の意のままにする欲望、世界征服の欲望の有無が、童貞と非童貞とを分けると思っている。
 この童貞たちの喧嘩は二つあり、いずれも法を介して行われる。ひとつはザッカーバーグにアイデアを盗まれたと主張するジョックの双子によるものであり、もうひとつは親友エドゥアルドとの決裂である。童貞映画には珍しいと思うのだけれど、この映画においては、前者のジョックすら童貞の一流派に過ぎないという風に描かれている。ハーバードでもトップクラスの成績であり、花形スポーツであるボートの選手、おまけに家柄の良い金髪碧眼の美青年である彼らは、つまり挫折を知らない。不条理に出会ったことがない。ボートの競技で負けることもあるが、それは正々堂々と闘った結果であり、納得の範疇なのである。しかし残念ながら世の中はそんなフェアゲームでは構成されておらず、彼らはまずザッカーバーグに出し抜かれ、紳士的でない彼の振る舞いをハーバードの学長に告げ口するも、ガキの喧嘩と一蹴されてしまう。この純朴な青年たちの正々堂々とした世界征服の欲望もまた、童貞的なものである。
 そしてもうひとつ、親友エドゥアルドとの喧嘩も、聞いてみればなんのことはない、親友の取り合いという小学生男子のようなものである。ザッカーバーグを巡ってエドゥアルドと争うのはナップスターの創業者ショーン・パーカーであり、彼への嫉妬やその報いが、フィスブックの経営を舞台に繰り広げられる。これだけ観るとショーンの介入が二人を決裂させたように思えるが、しかしそれより以前に非常に大切なシーンがある。セックスである。
 フェイスブックというサービスが学生を中心に認知され始めると、彼らはついに童貞の夢である「ファンの女の子とヤる」機会を得る。パーティ中、女の子とエドゥアルドがトイレの個室にこもると、どうやらザッカーバーグたちも個室に入った気配がする。結局エドゥアルド視点でそのシーンは終始するが、僕はあれが二人の道を分けるきっかけだと思う。その後、スーツに身を包んで広告営業に奔走するエドゥアルドは大人っぽい側面を強めていくし、ザッカーバーグは何も変わらずにプログラムを書き続ける。物語の最初から最後までザッカーバーグ自身が変わっていないことを考えると、おそらくあの個室で彼は童貞を捨てなかっただろうと思われる。
 だが、童貞を捨てるというのは一体なんだろう。童貞を捨てることで、何かが全くがらりと変わることなどあるのだろうか。セックスを経験した瞬間に、世界征服の欲望をキレイさっぱり捨て去ることなど、可能なのだろうか。思うに、おそらく自分の中の童貞を完全に捨て去ることなどできやしない。セックスを機に変わるのは、童貞でしかなかった自分に、童貞でない部分が加わるということである。世界を征服したい欲望が消え失せることなどない。だがそこでは同時に、もうひとつの欲望、つまり征服対象とすらなり得ない世界の豊穣さに触れ、求め始めるのである。これはもちろん矛盾している。だからほとんどの場合、自分のなかの童貞の部分を、童貞でない部分でなだめることを試みる。このように矛盾した自分を引き受けるということが、つまり大人になるということである。「童貞を捨てる」という言い回しは、童貞である自分を完全に捨て去ることなどできない自分に向けて、言い聞かせるように放たれた言葉なのだろう。
 結局、童貞にとって最大の関心事は、自分の目に見えないものをどのように風景化していくか、ということに尽きる。世界の全てを把握したい童貞は、直接自分の目が捉えられない筈の情報を集めるフェイスブックに期待を込める。しかしその外側で、エドゥアルドは西へ東へ飛び回り、彼女に怒鳴られ、スカーフを焼かれる。この映画の主要人物のなかで、エドゥアルドは唯一大人になりうる存在だが、彼はまだ童貞的世界を心地よく感じ、そして守ろうとしているように見えるのである。広告営業という最も大人な手段でフェイスブックに尽力するのは、フェイスブックと、それを生み出すザッカーバーグが、彼にとってピュアな童貞的世界の拠り所だったからだ。ガキの喧嘩に垣間見えるエドゥアルドの表情が、登場人物のなかで最も複雑に見えたのはそのせいだろう。

◇ところで、カダフィ大佐都知事や府知事などを見ていて思うのは、政治運営を任された国や地域に対して、どのような視点からイメージしているのだろうか、ということ。まるで自分の部屋の延長線上に置いているみたいだ、と思ったりする。

◇それにしても部屋は静かで、涼しく、切り離されるように感じる。それが楽しい時期を逃してからの、一人暮らし。