web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後1時。蝉が慌てて鳴いていた。

◇台風が来ているそうだ。激しく降る雨と強い風の合間で、夏の晴れ間が顔を出す。夏と秋のせめぎ合い。

◇妻が実家に帰って一人暮らしだと書いたが、その後なんだかんだで妻の実家に一日置きに泊まっている。そして今週末は台風も来るので、と言いながら連泊している。妻の実家の柴犬、奈々はどうも僕のことが大好きらしく、今朝起きるといつの間にか僕の布団に潜り込んでいた。

◇子供が生まれるまで、水泳はお預けかな。

アラザルの原稿に着手する。ラップという技術によって知覚されるものについて、できるだけ精確に把握したい。

書く、描くというのは記録がそのまま表現に結びつくが、録音や録画という技術は、日常的な身体そのものを記録の対象にしてしまう。言い換えれば、日常の煩雑な行動にまでひとつの完結的な態度を求めることすら可能なのである。このような環境に置かれてはじめて、ラップという歌が聴けるようになったんじゃないかと思っている。

◇多分、主な参考文献は大谷能生『貧しい音楽』と江藤淳『作家は行動する』になる。

◇妻が今週の検診でもらってきた写真を見ると、我が子がしっかりとこちらを向いていて、目と鼻と口が確認できる。超音波による不鮮明な映像にも関わらず、既に妻はかわいいと言う。とはいっても実に胎児らしい面構えで、僕はまだ人間になった状態の我が子の顔を想像できないでいる。だが妻の話を聴いているうちに、それが何を言っているのか段々わかってきた。人間になったときの顔を想定してかわいいと言っているのではなくて、胎児である今のその顔を見てかわいいと言っているのである。なるほど僕は顔を見ようとして、無意識のうちに広く社会的な価値判断を適用としようとしていた。しかしそうではない。二者の間で、個人的な関係のなかで、それは充分可能なのである。そんなことはとっくの昔に知っていたはずなのに。と、同時に僕はそのとき、ああ自分は父になろうとしているな、ということに気がついてしまった。