web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前5時半。日の出が鋭く顔を照らす、光が温かい。

◇この痛みが腹の張りによるものなのか陣痛なのか、あるいは本番の陣痛なのか前駆陣痛なのか、はっきりとしないまま病院に行くことになった。我慢できないほどのものではなく、臨月の妊婦ならこれくらい日常茶飯事なのだろうと笑っていた妻だが、念のため間隔を測ると徐々に狭まっていくようだった。出戻りになったら恥ずかしいねと言いながら妻は病院に電話をかける。はじめての妊娠であるのだから、世に言う陣痛がどの程度のものなのか、僕らは比べる術を持たない。応対した看護士もとりあえず来てみますかといった具合だったので、その日に帰る可能性も考慮に入れつつ妻の実家を出た。義父が車を出してくれた。
 助産師に調べてもらうと、腹部の張りの数値は高く、人によっては相当の痛みを伴うものらしい。しかし子宮口が依然として固いままなので、僕と妻は長丁場を覚悟した。このとき午後10時。定期的にやってくる痛みを陣痛と捉え、呼吸を整えマッサージを施すようにした。陣痛のないときは普段通りの会話をしていて、僕は合間を縫って義父母に、今日はこのまま入院になるそうです、長丁場かもしれません、と電話をかけた。
 痛みは次第に強くなっていき、何度目かの診断でようやく子宮口が4センチほど開いたという。指圧をする位置もどんどん下がっていき、妻は陣痛のないときさえ少し苦しそうである。助産師曰く、早ければ朝7時には生まれるかもしれないという。大体午前2時くらいだった。この後の最も苦しい時間帯に入ると、妻は苦しい呼吸に嗚咽を滲ませ、僕はマッサージをすると同時に力みの少ない呼吸を促すようになっていた。丁度このとき、この病院で出産に臨むのは僕らだけだったようで、妻が苦しそうにするとすぐに担当の助産師がやってきて、巧みに妻を安全な出産へと誘導していた。僕はそれを手本にすれば良かったので、非常に幸運だったと思う。

◇見事に安産であった。弱気なそぶりも見せず、助産師のアドバイスを素直かつ丁寧、真剣に実践してみせた妻は、四回ほどのいきみで息子を出産した。分娩室に入って30分足らずである。息子は威勢良く産声を上げて、周囲を笑わせていた。妻が笑って、僕が笑った。医師と助産師、看護助手などが取り上げた時間を確認する。午前4時手前。息子は肺呼吸を開始し、それが僕らの便宜的に共有する時間に記録される。

◇2011年9月11日、僕は親になった。

◇童貞として相対的に唯一の存在になることを望む。誰かの恋人になって絶対的に唯一の存在であることを引き受ける。夫となって自分が彼女の唯一であることを社会的に通知する。親になって自分の死後を個人的な問題として考える。僕の社会的な呼称は複数化していき、そのどれもが正解であるが、どれかだけが正解ではない。童貞を捨てて誰かの恋人になり、恋の季節を終えて結婚生活を始め、結婚生活と引き換えに子を育てるといった認識は、きっとどれも充分なものではないのだろう。自分の中に複数の自覚を得ることで、僕らは自分の生活にグリッドを引いていく。普段の生活、不断の運動の中に視軸をいくつも走らせることによって、より繊細で豊かな身体の運動が可能になる。10年前、テレビ映像で世界の混沌を望んではしゃいだ高校生は、その後、自分を複数化して捉えることによって、世界が既にして混沌であったことを知った。それが恐怖であり、が故の豊穣さであることを理解した。僕はこの10年間がそれなりの時間であるということに、ようやく気がつく。

◇産後の妻と談笑する。この数ヶ月、妻と二人で話すときには、胎にいるもうひとりを会話の当事者としていた。だが今、妻の腹に息子は居ない。なんだかさみしい気もするねと妻が笑顔で話す。お互い少し休もうと言って、寝床のない僕は入口のソファを目指して部屋を出た。出産は一晩で終わった。廊下を曲がると急に日の出の光が差し込んで、僕の顔をしばらく暖めていた。