web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後7時。昼の喧噪を奏でる冷蔵庫。

◇本日は息子のお宮参りがあったため、両家の両親が我が家に集まって昼食を摂った。主にうちの母親がずーっと喋っていたが、皆が帰ると、僕らはクタクタだった。早めの風呂の後、息子はそのまま寝てしまった。妻も添い寝をしたまま休んでいる。僕は久々にひとりでブログを更新している。

◇水泳は、お休み。水の交換とやらで市民プールが来週まで営業していない。なんだか最近は思い出したときに泳ぐ、といった感じになってしまう。

◇先週はパブリック娘。の面々に色々と聞くべく、明学に行ってきた。やはり相当に“わかっている”彼らのクレバーな態度に改めて感動する。
 明治学院大学は学生に“Do for Others”の精神を求めるが、それを可能にするには、先に自分たちの輪郭を明確にしなければならない。ラップは言葉によって自分の身体と時間を自覚する行為である。与えられた時間をただ享受するのではなく、あるいはそれを否定するように自分の時間を声高に叫ぶのではなく、所与の時間を咀嚼し、再び吐き出すことで、時間を自分のものにしていく。そうでなければ、自分は自分の生を生きられず、他者の生を認めることもできない。漫然と教会に行くことが信仰の表明にならないように、自覚のないところに倫理は伴わない。その意味でも、ラップは極めて倫理的な行為だろう。もしかしたらそこが、詩と大きく異なるところなのかもしれない。

◇ところで、フリースタイルがうまくなりたい。

◇昨日は息子が爆笑した。笑いのメカニズムには諸説あるが、僕が信頼しているのは情報のアウトプットとインプットの齟齬によるという説。情報を受け取ったとき、それを処理してなんらかの反応をするというのが一連の手続きなのだけれど、変な情報が入り込むとアウトプットするまでの間に、身体は痙攣を起こす。あるいは普通の情報が入り込んでも、それを自分のなかで変な処理を施して笑えるものにしてしまう。つまり、処理を施すという能動的な態度がそこにはあるんじゃないか、と思ったりしている。赤ん坊の「泣く」は結構直接的かつ受動的かもしれないけれど、「笑う」は能動的に情報を処理しようとするときに顕われるような、つまり理性の片鱗がそこにはあるような気がする。
 泣けるものより、笑えるものの方が信用できそうな気がするのは、僕が上の仮説に則って考えるからかもしれない。

◇やば。