RauDef vs.zeebra
◇RauDefとzeebraのビーフは、なんとも馴れ合った感じで終わってしまって残念だった*1。そもそも、ビーフにおいて明確な勝敗が決するというのは結構難しく、強いて言えば、ラッパーがヘッズのプロップスをどのようにして集めて勝ちを得るか、ということになるのだろう。今回の一件については、リスナーはもっと怒っていいのではないか。これで両者のどちらかでもプロップスを集めることがあるとしたら、それはヒップホップが好きだから応援したい、という義理に支えられたものでしかないんじゃないか。それはそれで大事なことではありますが。
RauDefの「ガキの遊び」発言やzeebraの甘い態度は、ラッパーの言葉は常にリアルである、という前提を崩しかねない。そのラップがリアルかフェイクかはリスナーが判断することであり、ラッパー自らここまではフェイクでここからがリアルだという線引きをすることは、どう考えても甘えだろう。リスナーの義理がこういったラッパーの甘えを許すと、悪い方向での閉塞が加速し、ヘッズといえば排他的な人間関係を指すようになる。
◇前回の、要はラップが良ければいいのである、という意見と矛盾するように映るかもしれない。しかし、ラッパーによるラップの良さのひとつには、いうまでもなく「リアルであること」が挙げられることを踏まえると、このような態度を許容するわけにもいかなくなってくる。
ラップはやはり歌である。が、限りなく歌い手の発話に近い形で歌われる歌である。いかにしてこのような詠法が生まれたかについては、おそらく録音技術の発達と無縁ではないのだろう*2。レコードの登場以降、歌が何度でも再生可能になり、歌い手の身体から離れていくという状況があったからこそ、歌そのものに歌い手の身体を忍ばせる試みが生まれたのではないか。ラッパーがリリック中に自身の名前を入れるのも、名刺代わりのパンチラインを創作するのも、そうした試みの一環のように思える。日常的にラップの言葉を多用し、フリースタイルを生活の一部に組み込むことなども、おそらくラップを普段使いのリアルな言葉に馴染ませる作業だといえる。
ラップを嘘だと公言することは、そのラッパーにとってのラップは彼の日常から離れたものである、という意思表明の他に何かあるだろうか。ラップは歌であり、そして演説でもある。演説の音楽性を強調していった先に、ラップという特徴的な詠法がある。だからこそラッパーとラップは切り離せないものとなり、例えレコードの上に落とし込まれたとしても、生きたラッパーを観ることが可能になる。
◇とはいえ、たしかにRauDefとzeebraのこのイチャイチャした甘えは非常に不愉快なものではあったが、しかしそれは単に責任感と思考力が欠如しているだけであって、むしろこのビーフにおける一連のラップの方に彼らの本音があるのだろう、という擁護には(そういう擁護があるかどうかは調べてないけど)かなり同意している。なぜなら、確かにあそこにはそれぞれのスタイルの違いを明確に打ち出し、見せ場を心得た優れたラップがあったからだ。RauDefがなぜわざわざ釣り宣言をしたのか、そしてなぜzeebraはそれに甘い顔をしたのか。とにかく僕は悔しくてならない。
◇ラッパーとラップの間に齟齬が生まれるのは、どうしても本名の自分を無視できないからだ。と言うのであれば、マスクを被るというのもひとつの手ではある。
MF Doom - Doomsday