ラップ論メモ5 大谷能生×大和田俊之『ヒップホップ・ブックカフェ』(http://snac.in/?p=1922)から
◇昨日は大谷能生×大和田俊之『ヒップホップ・ブックカフェ』というイベントへ(→http://snac.in/?p=1922)。最終的にはヒップホップの話は少なめだったけれど、アフロ・フューチャリズムという独特の時間概念を、デューク・エリントンの『A Drum is a Woman』を軸に解説するというもので、かなり貴重な体験ができた。以下、このイベントから刺激されたことも含めてメモしておく。
大和田俊之『アメリカ音楽史』にも書かれていたけれど、公民権運動と宇宙開発史は全く同時期にあって、それがアフリカ系アメリカ人たちにちょっと独特なアイデンティティを形成させる。宇宙開発、というか宇宙人という他者に抱く幻想は、ここではないどこかへの願望を託す先である。自分を規定する時間軸を、毎日の生活を支配するこの時間(歴史)だけとするのではなく、同時に別のものを用意して、自分という存在を捉える視軸を複数化してしまう。昨夜の対談においては、自分を土星人と言い切るサン・ラから、ギリシャ人になろうとするマイケル・ジャクソン、あるいはバグパイプを持ったアンドレ3000や、バルカン星人のハンドジェスチャーをかますファレル・ウィリアムスまで、彼らは一様に他者を「偽装」(大和田俊之『アメリカ音楽史』)し、自分へのまなざしをいくつも用意するのだという(ただ、この偽装は自分の身体に無自覚だということではないと思っている。偽装することによって逆説的に立ち上がるのは、むしろ自分の身体そのものの自覚である。身体に裏切られる前提が担保されているからこそ、むしろ積極的に偽装することができたのではないだろうか)。
大和田氏によれば、アフロ・フューチャリズムはフューチャリズム(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E6%B4%BE)とは異なり、過去に未来を幻視する想像力のこと。これは個人的にはすごく自然に受け止められるのだけれども、乱暴に言ってしまえば、言語活動そのもののことではないかと思う。例えば昨日の出来事を思い出そうとするとき、僕らはそれをひとつの独立したエピソードとして捉えようとする。あるいは一本の映画を批評するときにひとつの見立てを作ったり、歴史を政治というテーマから読み解こうとするのも同様で、僕らはそのとき、そこにひとつのフィクションを練り上げる。一冊の書物が、どう考えても文字を一文字も変化させていないにも関わらず、あらゆる読解を許容せざるを得ないのは、つまり読む=書き換えを僕らが常にしているからである。アフロ・フューチャリズムを、僕はそういうフィクション化の力によるものと理解する。
ヒップホップの四大要素といえば、DJイング、MCイング、ブレイキング、グラフィティだけれども、そう考えるとこれらは全て書き換え行為だということがよくわかる。自分にお構いなしにあらかじめ存在しているそれらを、自分の物語のなかの構成要素と見立て、書き換え、従属させていく。ラッパーとは、自分の物語の主人公の名前であり、彼らはラップすることでラッパーの姿を「偽装」するのだと思う。
◇それから、踊るという行為は、読む=書き換えと全く同じもので、聴くことと演奏することを同じ地平に見据えることだとも思う。ラップは、唇のダンスでもある。その意味において、踊る欲望を刺激しようともしない、鑑賞用のためだけになされるラップは、ラップではない。