web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

SALU『IN MY SHOES』

聴いてるうちに、これはラップ曲というよりヴォーカル曲と言った方がしっくりくるような気がしてくる。ラップは、自らの身体を強く感じながら歌われるものだと思うからだ。自己と他者の区別を取り払おうとする歌唱とは逆のアプローチ。
 「字足らず字余りがグルーヴを生む」「複数秩序の単線上の叙述が訛りを生む」。いずれも、言葉を物質に変える際、つまり発声するときに、身体側の抵抗が引き起こす現象だろう。身体を徹底的にコントロールするのではなく、むしろコントロールしきれない部分とどのように折り合いをつけるか。その試行錯誤がグルーヴを生み、聴くものの身体を踊らせる。ラップは、彼自身の身体の痕跡をレコードの上に刻み付けることで、それを聴く他の誰かにラップを促す。これはリリックが基本的にはラッパー自身の手によって書かれ、彼自身にのみ歌われることを前提としていることとも密接に関わる話だと思う。
 さて、その視点で見ると、SALUが人類愛をテーマに巨視的な視点でリリックを書くということについても回答が出そうな気がする。SALUのラップは、身体をほぼ理想通りにコントロールしたところに成り立っている。それはラッパーのラップというよりも、優れたヴォーカリストの超絶技巧に近い。符割とブレスを自在に操って刻んでいくリズムは不安定な揺らぎを孕まず、つまり彼の身体は、彼にとっては完璧に制御可能なツールとなる。決して身体の側が彼の予想を裏切ることはない。だからこそ、SALUのリリックにおける主語はSALU本人から離れ、人類そのものにまで拡張することも出来るのである。

 ラップが切り開いてきた歌唱技術を、従来のポピュラー音楽の図式に当てはめて応用したという意味において、ひとまずは優れたヴォーカリストの誕生を喜ばずにはいられない。今後のSALUが、この圧倒的なスキルを持ってしてラップそれ自体の可能性をどんどん開拓するラッパーになっていくことを期待する。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120317より抜粋。