web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

SIMI LAB内紛に端を発するビーフ考

 先日、similabの一件に菊地成孔が入ってきたらしい、ということを書いたけれど、菊地氏ご自身のブログで、そのことへの追記がなされていた。フックアップもしていただき、大変感謝(→http://www.kikuchinaruyoshi.net/2012/06/12/simi-lab%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E8%BF%BD%E8%A8%98/)。
 similabの二人についてもさることながら、音楽家×批評家×リスナーの三者が固くこわばったままコミュニケーションを閉ざしている、という話にも刺激を受ける。この三者が活発な応酬を行うためには、それぞれの役割は流動的なものである、という(自明の)前提を共有している必要があると思うのだけれど、現在、三者は全く別種の人間であるかのような物言いをよく見掛けるような気がする。
 最終的な結果として、作品を提出する/評する/聴取する、という行動が立ち現われるものだけど、それまでには当然、創作/批評/聴取のいずれをも通過しているわけで、この三つは常に密接に関係し合う。音楽家/批評家/リスナーという自称は、言葉で恣意的な線引きを施すことでアイデンティティを形成する試みであり、つまりこれらはひとりの人間を三つの角度から撮影するようなものだと思う。
 ただ、個人的な印象として、そういう理解が一部では全くなされていないような気もする。SNS別にアカウントを作って、それぞれに別の人間関係を形成してコミュニケイトするような、いわゆる「クラスタ」的想像力は、ひとりの人間を多角的に撮影した後に、再構成するんではなく、散らばったまま別の人間として捉える、という感覚を用意したのかもしれない。音楽家は音楽を作るだけであり、批評家は提出された作品を評するだけ、リスナーはただただ口を開けて聴くのみ、といった、なんとも単純な分割をいたるところで目撃する。曰く、批評家は音楽家を理解できない。曰く、批評はリスナーの感想文に非ず。これらの命題について正しいか否かの議論は別の問題として大切なものだが、少なくとも、これらが稚拙な感情的賛同を集めている様子を見るたびに、そりゃグレーゾーンを許容する余裕もなくなるよな、と妙に納得させられてしまう。
 ところで、この戦争拒否と戦争飢餓の話。「活発に議論がなされる状態とは、“闘争的であるが故に平和的”という意味において“戦争拒否”である」「閉じこもった内側でのみ語り、コミュニケーションを拒絶することは、あらゆる社会的な問題をも個人の恨みとして表出せざるを得ない、“戦争飢餓”である」。ここでいう「戦争」とは同時に「祝祭」でもあるが、祭りの場にはダンスがあるということにまず注目したのが、「ビーフ」じゃないだろうか。
 おそらくダンスは、聴取と批評を同時に行い、なおかつそれをひとつの演奏として提出するものだけれど、そう考えると、唇のダンスであるラップが、音楽家/批評家/リスナーという役割を再び流動化させる「ビーフ」という祭りを引き起こすのは、ごく自然な成り行きだと思えてくる。どんな立ち位置からも参加できるビーフという祭りの場においては、参加者によってルールがその都度形成/変更され続けており、つまり常に新しい身体の使い方が発見され続けている。ジャズメンであると同時にひとりのリスナーとして批評的な私信を放つラジオパーソナリティのように、あらゆる立場の境目に揺れることは、それぞれの役割に「とは何か」を問い、同時にその隙間に埋もれていた言葉/身体を顕在化する。はっきりと、僕はそれを可能にするフレッシュなムーヴが生まれる瞬間に期待しながら、ラッパーの動向を観察しているのだと自覚した。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120617より抜粋