午後10時。ストーブの上の薬缶の吐息。
◇息子が寝静まった後、ふたりでぽりぽりと柿の種をかじる。というか、妻は柿の種を噛まずに飲みこむのが好きらしく、彼女がかじるのは専らピーナツの方。嬉しそうに柿の種をごくんと飲みこむ妻の姿を不思議に思って「柿の種 飲みこむ」でググってみると、こういう食べ方を好む人は一定数居るようだった。
◇もう先週の日曜日になるけれど、水泳で新記録を達成したので書き残しておきたい。50分2300メートル。一分一往復のペースで2000メートル泳いだので、残りの10分間は左息継ぎの練習に充てた。左右どちらからでも息継ぎできなければ、まだまだクロールが泳げるとはいえない気がしてきた。
◇ラップのフロウについての菊地成孔氏の考察が面白い。もっとも、これは氏が以前から『憂鬱と官能を教えた学校』などでも言及しているリズムの訛りの問題で、特別目新しい更新があったわけではない。けれどもラップという日常口語に近い表現形式を例に取ると、それがアナロジーでもなんでもなくて、本当に訛っているというのがよくわかる。
複数秩序を単線上に叙述しようとすると、訛る。その訛りこそがフロウを生むというのが菊地成孔氏の主張で、これは多分、桜井圭介氏の言う「切羽詰まった身体」と同根だと思う。トム・フーパー『英国王のスピーチ』は、吃音持ちの王ジョージ6世のスピーチを扱った映画だったけれども、あそこでは王家の秩序と自身のリズムという二つの秩序を、ひとつの口からどのように発するかが描かれていた。つまり、複数秩序を単線上に叙述しようとすると、訛るか、もしくは吃るのである。両方とも同じものだけれども、吃音の制御不可能性それ自体の制御、つまり制御できないことを容認したうえでそのまま話すと訛りになる、ということだろう。それは、矛盾を孕んだまま、どちらの秩序も否定することなく曖昧なまま飲み込んでしまうことでもある。
ラップにおける執拗な押韻は、実はその矛盾を飲み込むためのエンジンなのではないかと思う。
韻は、言ってしまえばダジャレのことである。切羽詰まった身体としてのダジャレ、というのもたしか桜井圭介氏が言っていた気がするけれども、何も言うことがないのに何か言わなければならない状況に置かれたとき、つい口をついて出てしまうダジャレというのは、受け取った言葉を充分に意味レベルにまで咀嚼してから返すのではなくて、言葉の外殻、つまり音に反応することである。言葉を充分に抽象化する時間を与えられないまま無理矢理に飲み込もうとすると、まずは具体的な手触りにその注意が払われる。飲み込むために施された押韻が、揺らぎを孕んだフロウを可能にする。
◇ラップは唇のダンスである。
◇やってみるとよくわかるけれど、実は韻を踏まないリリックは難しい。数文字で踏むよりも、子音や一文字だけで言葉にアクセントをつける方が、縛りが緩い分、適切な選択に迷う。ジャズにおけるコードとモードの違いも、もしかしたらこれと似ているのかもしれない。
◇息子はもう自在に寝返りは打てるようになったのだが、寝返り返りがまだできない。かといってうつぶせの状態が嫌なのかというと必ずしもそうではなく、とうとう今日はそのままひとりで寝てしまったらしい。段々とひとりでできることが増える。