web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前9時。畳の埃を机に載せる。

◇ハイハイが一気にスピードアップして、掴まり立ちも随分安定してきた。自転車や自動車の運転、あるいはスノボやスケートと同様の、移動それ自体の快楽というものがあるのだと思う。身体をうまく乗りこなすことの気持ち良さ。

◇先々週、先週、今週と、ここのところ週末は多摩動物園に行っている。もうあと一回行けば、入場料の累計がフリーパスの金額と同じになる。
 入場ゲートをくぐる頃、息子はなぜか毎回決まって眠ってしまうので、入り口付近の動物はほとんど観ていない。親としては折角動物園に来ているのだからと思うわけで、起きた頃を見計らって、絵本でお気に入りのオランウータンやサイ、ゾウなどの檻の前に廻る。しかし彼にとっては動物園の生き物だからなんだといった具合で、動物を観るより檻の前の草などをじっと眺めている。あと何回回転すれば、それが自分の視点と気付くだろうか。彼が大人になる日のことを想像してみる。

◇おかげさまで『アラザルvol.7』は文学フリマでも相当数売れたみたい。今後、一般書店や通販などでも対応していくけれど(→http://gips.exblog.jp/18288716/)、正直在庫が厳しい様子。嬉しい悲鳴ではあるのだけれども。

◇批評とは何か系の議論は、自分が一体何をやってるのか把握しておきたいという欲望に突き動かされているのだろうけれど、当然のことながら、自分が何をしているかなんて問いに明快に答えることほど不自然なものはない。その意味において、非常に良い批評を書く人が意外に無垢な批評観を持ってたりすることは、なんだかんだ言ってあり得るかもしれないな、とは思っている。
 けれどしかし、やっぱり批評においては、ある種の天然な作家たちが行う自問自答よりも、ある程度自覚的な回答を用意しておく必要がある。もちろんそれは暫定的な回答でしかあり得ないけれど、しかしそれなりの批評観を設定しておかないと、対象となる作品とそれを観る自分の間に線を引くことができなくなる。この「線を引く」という行為そのものが、やっぱり批評を批評たらしめているんじゃないか。
 対象から受け取ったイメージを元手に創造することと、対象の持つイメージを丁寧に読解することは、全然違う行為だろう。前者が用意する豊かさは、対象が持ち合わせていたものとは限らないが、後者は、対象自体の持つ豊かさを読み取ることに勤しむ態度。僕は個人的に、後者を批評と捉えている。批評は作品とは異なって、それ自体で自律するものではなく、対象と合わせて立つ必要がある。
 対象を自分に血肉化するのではなく、あくまで自分の外側に置いておく。しかし、批評は記録を第一の目的としているのかと言えば、それもまた違うような気がする。いわゆるドキュメンタリなどについて、純粋な客観性を保持することはあり得ず、なんらかの恣意性が絶対に紛れ込んでしまう、という指摘はよく言われることだけれども、記録がその恣意性から可能な限り遠ざかろうとするのとは違って、批評は別にそのようなことをするわけではない。批評が行うのは、これは語り手である私の恣意性に依る、と堂々と宣言することである。
 つまり、私は対象にこのような輪郭線を引いた、というひとつの読みを提示する、ということ。それによって、輪郭線の外側に切り捨てられたものの存在を、その批評の外に感知することができるようになるだろう。そのような批評に立ち会ったとき、彼は再び対象を眺めようとする。自分にはどのような線が引けるのか、を問う余地が残される。

◇考えてみれば、セルフ撮りやらビデオチャットやらと地続きな「ガーリーラップ」が、今までなかったことの方が不思議に思えてくる。日本に置き換えれば、ニコ生アイドルとニコラップが合わさった状態かな。

ティーンアイドルがフリースタイルかます時代、こういう趣味のラッパー達はもっともっと当たり前になってくんだろな。

◇バリカンで髪を切った。坊主ではないセルフカットは初めてで緊張した(襟足は妻にやってもらった)けれど、なんとか格好はついたかも。