web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前3時。寝息と泣き声の入り混じる。

◇夜中に目を覚ました息子を、授乳以外の方法で再度寝かしつけるのが難しい。泣いているのを見るとすぐにくすぐって誤摩化したくなるが、興奮して完全に起きてしまっても困るので、静かに抱きかかえる。1時間半ほど泣き続けた後、自分から布団に横になって、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら寝た。

◇妻が高熱を出してしまった。どうも乳腺炎らしいとのこと。
 息子がおっぱいに歯を立てるらしく、授乳のたびに妻の悲鳴が聞こえる。傷口は深くなる一方で、そろそろ卒乳も考慮に入れなきゃいけない時期でもあるという事情もあり、最近は授乳回数を減らしていた。今回の乳腺炎は、そうした事情が影響してしまったらしい。
 妻が寝床に臥せっている間、僕は息子と気儘な時間を過ごしていた。

◇水泳に関しては、もう今年は行かない。年末になると「心機一転、来年から」という言い訳をするようになる。

◇『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。いい話だと思う。
 あの旧劇場版のラストについては、本当にびっくりしたと同時に疑問も覚えていた。簡単にいえば、何もそこまでしなくてもいいんじゃないか、ということである。あそこまでしなければならないというのは、むしろその問題に拘泥し続けていることの証拠であり、更に拘泥し続けるであろう担保にもなってしまう。
 旧劇場版のアスカが、あそこまで激烈な拒絶を持ち出さなければ他者性を持ち得ないのに対して、『Q』のアスカ及び作品世界においては、見知った顔の人間が知らない人間として振る舞う、という極めてまっとうな方法で他者が現れる。つまり「あの後シンジはどうした?」が、ごく自然な形でここから始まろうとしている。
 自分と母親以外の人間を他者と感じる子供にとって、他者は無力感を持ち込む存在でしかない。他者の存在を意識し始める時期の子供は、全能感か無力感かの二択でしか世界と自分を切り結べないからだ。無力感から逃れるために、全能感をのみ得られる世界に閉じこもろうとする者のことを、童貞と呼ぶ。戦闘ロボットや美少女フィギュアに熱中し、空想の世界に浸り切ることによって母との関係を無理矢理に続けようとする童貞は、全能感の有効な領域のなかで、自分自身を理想的な姿に作り変えようとするだろう。つまり、『Q』のなかで重要な要素は、エヴァ綾波という母との断絶、そして渚カヲルという理想化された自分の否定である。それによって、シンジは徹底的に途方に暮れ、正しく無力感を突きつけられることに成功する。
 だから、茫然とするシンジの手を引く『Q』のアスカは、他者として存在しながら、全能感と無力感の単純な対立の先へと誘う存在である。かつて、「貴方のお母さんではない」という身振りを強めていった挙句、ついに「気持ち悪い」と発言しなければならなかった人物と、14年の時を経て、断絶を深めることによって、逆にこれからの関係性を模索していくことができるようになる。そのようなごくありふれたことが、きちんとこの作品にも与えられたということに、少し感動してしまったり。

◇それにしても、かりそめではあったとしても、ひきこもれる(と思える)場所がある、というのは一種の贅沢な悩みにすら思える、というのが僕がエヴァに行かずに古谷実僕といっしょ』に行った理由ではある。