宮崎駿『風立ちぬ』
◇『トゥ・ザ・ワンダー』が物語の外から吹く風を浴び続けているのだとしたら、『風立ちぬ』は物語の内側に風を起こし、外に向かって吹いていく。
動きの演出を完全にコントロールできるように思われがちなアニメーションは、しかしそこに風そのものを描くことはできない。「誰が風を見たでしょう、僕もあなたも見やしない、けれど木の葉を震わせて、風は通り抜けていく」。捉えることのできない風は、だから景色の変化を丁寧に追うことでしか感覚できない。僕達が見ることができるのは、風の軌跡だけである。
これはたしかに、飛行機に夢を託す男の物語だということは間違いない。が、しかしもっと丁寧に言い直すならば、風を見る欲望に取り憑かれた男の物語なのである。二郎の飛行機は、強力なエンジンや頑丈な機体によって自らを駆動していくのではなく、風を全身に受けて軽やかに舞う。彼の飛行機は、つまり風を映し出す鏡なのである。
どこへ向かって吹くのかわからない風に乗れば、想像のつかない景色だって観ることもできるだろう。もちろん、想像を絶する景色も同様に。しかしパイロットではない二郎は、風に乗ることなく、ただ風を見つめつづける。二郎にとっての現実とは、風を眺める時間のなかにしか存在しない。だから、飛行機が殺戮の道具となることを憂いながらも、その開発に勤しむし、病床に伏せる妻の傍らで、ついタバコに火を点けてしまう。近眼持ちの二郎は、「いまここ」の外側にしか描き得ない風だけを見つめている。
風を眺めるような視線に晒される妻・菜穂子は、だから夫の記憶のなかに美しい姿のまま留まることを望むし、実際に浮世を離れた存在となることで、二郎にとっての現実のなかに、その姿をより鮮明に顕すようになったかもしれない。だからこれは、本当に残酷な話だ。
◇風が吹いているならば、生きなければならない。それは同時に、どこまでも外側でありつづける風に、どこまでも戦慄きつづけることを意味する。全くその通りだが、それを字義通り風への戦慄としなければならなかったのが、二郎の幸福であり不幸であると思う。美しい以外の菜穂子の側面にこそ、風と同じ外部を感じ取ることはできないだろうか。