web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

正午手前。洗いかけの皿。

◇早い昼食の後、皿洗いをしている私の隣で、息子がシンクを覗きこむ。しばらくして離れたと思ったら、父の飲みかけのマグカップにスプーンをかちゃかちゃさせながら戻ってくる。これ、かきまぜてあげたの、と、断れない感じに一杯勧められるので、慌てて手についた泡を落とし、皿洗いを中断した。

◇5月最終日、真夏日の昼過ぎに多摩動物公園へ。活発になるのもいれば、ますますだらけるのもいて、それはここで生活する動物たちも、訪問客も皆同じであった。まだ体が気候に慣れていないようなので、ゾウやキリンやフラミンゴ等の居るアフリカ園を中心に観て、早々と切り上げることにした。

◇最近の息子は、またたまに昼寝をするらしい。仕事中、妻がメールで伝えてくれる。即座に折り返して、やはり最近の気温上昇で体力を奪われたのだろうか、いや朝から踊り過ぎてるだけじゃなかろうか等々、やり取りするのが、仕事の息抜きになっている。そして昼寝をした日は、就寝時間も少し遅めになるので、もしかしたら息子が寝る前に帰宅できるのかもしれなかった。
 先日、果たして就寝前の息子に間に合った私は、テンションが上がり切ってなかなか寝ない息子との格闘を楽しんだ。寝たふりをする両親を線路に見立て、歌を唄いながら、お茶の入った水筒を走らせる。そうして時折、ちゃぽちゃぽと音を立てて走る列車を停めると、両親に手を繋がせて、母線から父線へと乗り入れを行ったりする。笑いをこらえながら薄目を開けると、つないだ手の向こう側に、妻と目が合う。

◇ヒップホップはとりわけ「現場」を強調するジャンルではあるけれど、これは考えてみると少し不思議なことでもある。発生当初からして録音物が中心にあり、演奏者が居なくとも音楽が起こることを前提としているヒップホップは、そもそも何をもってその音楽の当事者とするのか、曖昧といえば曖昧ではある。
 あるときは、レコードの吹き込まれる瞬間の演奏、及びそのクリエイティビティを支える生活空間のことを現場と捉えることもできる。そのとき、演奏者を指してその音楽の当事者と捉えることは、西欧近代音楽のそれと似ていて、私達の多くにはごく自然に受け止められる感覚だろう。しかしまたあるときは、演奏者の居ないレコードが鳴っている状況も、現場であり得たりする。情熱的に歌い上げるボーカルよりもタイトにリズムを刻むドラムブレイクの方がオーディエンス=ダンサーには受けるというとき、この音楽の当事者はレコードを吹き込んだ演奏者ではなく、それに合わせてステップを踏むダンサーたちの方だと言うこともできる。
 いずれの「現場」も両立し得るのだと考えた場合、こうした当事者性の受け渡しを活発に行う空間をこそ、現場と呼ぶことはできるのではないか。誰もが当事者というポジションを奪い合っている場所。それはつまるところ、常に批評的な目が光っている場所でもある。

アラザル同人のK氏と久々の会話。話の流れで柳家小三治を勧められる。youtubeで適当なのをあれこれ拾って観ているけれど、この人のやる酔っぱらいは、本当にしつこくて実にうざったい。小さんの『うどんや』と小三治のそれを比較して観てみるとわかりやすいけれど、弟子の小三治の方が、ひどい絡み方をする。
 酔い方が大変すばらしいので、ついでに『らくだ』を聴いてみたのだけれど、素人耳では、談志のそれよりも遥かに面白く感じた。キャラクターの演じ分けが明確で、また、素面のくず屋のなかの「悪」も丁寧に描いているように見えて、後半からのどんでんも、ごく自然に納得してしまう。

 ちなみにこの『らくだ』。まだ数名分しか聴いてない耳であれだけど、立場の逆転する演出にあまり時間をかけない人ほど、力量があるんじゃないかって気になる。