web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後3時半。風と寝息。

◇不安定な雲の動きを気にしながら、寝汗びっしょりの息子を眺めている。そのうち急に暗くなった外から、強めの風が吹いてきた。

◇二日連続で朝5時より前に起きてしまったので、息子はこの土日、朝寝や昼寝をして過ごした。都合、両親もなんとなく寝たり起きたりを繰り返して、のんびりとした週末であった。
 土曜日は新調したバリカンを使ってみたかったので、私と息子は短めに散髪することにした。前回までは裸になって脱衣所で髪を切っていたのだが、息子が腕に落ちてくる髪の毛を嫌がるので、今回はユニクロのビニール袋で手作りケープを作って、床屋さんスタイルで行った。結果、息子は大喜びで、散髪も無事成功したからよかったのだが、考えたら息子はそもそも床屋さんを知らない。

コーエン兄弟インサイド・ルーウィン・デイヴィス』。
 「ルーウィン・デイヴィスの胸のうち」でもあるし、「ルーウィン・デイヴィスの心象風景」でもある。普通に流れを追うならば、きちんと「さよなら」を言うまでの物語であるのだけれど、実はその過程で起こった旅の風景こそが、この物語なのかもしれない。
 猫は常に、ここではないどこかに半身浸かった存在である。だから、自分を映し出す鏡のように見えたりもするし、不在の人物になぞらえられたりもする。今自分の生きている世界を、異なる次元から眺める視線。それが猫の目なのである。
 『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は、猫の旅物語である。ニューヨークの地下鉄内で自身の姿を確認するところに始まり、ルーウィンをまっすぐ見詰めるところまで、夢か現か判然としない旅が続く。作品冒頭から“宙ぶらりん”なルーウィンは、だから猫と別れない限り、再び地に足をつけることができないでいる。
 果たして物語は、猫と別れて旅を終える。だが、旅の終わりは、言い換えれば旅を永遠に続けることでもある。その永遠の旅は、最後にルーウィンが見詰める猫の姿に託されているのだと思う。信じられないような、でも実際の旅の話。

◇ところで、『ファーゴ』に引き続き、この作品にも「based on a true story」という文句が出てくるわけで、コーエン兄弟の言う「true story」というのは一体なんなのだろう、と思う。今観ている映像が「現実」なのか否か、がんがん揺さぶりをかけてくる彼らの「true story」は、一見ひねくれていて、一筋縄ではいかない感じもするけれど、同時にすごくシンプルなような気がしている。