web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後4時。秋風になびく妻の髪。

◇土手の上まで迎えに来た母に向かって、川辺の公園に居る息子が、おう、と言って応える。日が暮れ始めるより先に、風が冷たくなってくる。

◇土曜日、来年から通う予定の幼稚園にて、入園前面談。言ってみれば入試である。ほとんど全入だけれども。
 両親はどちらかひとりだけしか面談に立ち会えないということなので、私が行くことになった。妻曰く、母といっしょだと甘えが出るのか、人見知りが強く出る傾向があって、面談のときにきちんと自己紹介できないかもしれない、とのこと。実際、私の知る最近の息子は、近所の人と交わす挨拶の声も大きくなってきたし、公園で出会った初対面の子と話したりいっしょに遊んだりしていて、特に激しい人見知りを感じることが大分少なくなった。そう考えると、妻の分析は正しいのかもしれない。果たして面談はうまくいき、息子は自分の名前と年齢をはっきり話し、笑顔で面談を終えたのであった。もっとも、面談の日の数日前から、妻はしっかり息子とシミュレーションを繰り返していたわけで、こういうイベント、大袈裟に言えば通過儀礼は、目安になるのでありがたいなあと思う。

◇おはようの直後、なぜ父はまだ起きないのか?という質問に始まり、寝る間際、まだ遊びたかったのに、と一日を締めくくるまで、息子は本当に一日中ずーっと喋り続けている。外出しても、自転車の後ろの座席から質問や鼻歌が途切れることはないし、疲れて不機嫌になっても言葉を切らすことはない。レトリックやダジャレも好むようで、週末だけ長く居る父にとってはなかなか楽しい。しかし妻のように、一週間の大半を二人きりで過ごしていると大変だろう。
 私のダウンジャケットの脇の部分が破れてしまった。妻が今度まつり縫いをして直すと言うと、まつりの言葉に反応した息子が、ならば太鼓を叩くから今すぐ直せと言う。結局根負けした妻がちくちく針仕事を始めると、息子が力んだかけ声とともに太鼓をどおんどおんと威勢よく鳴らす。例えば今日はこんな感じであった。毎日、こんな不思議な光景が作られている。

◇Chet Faker『Gold』。監督はヒロ・ムライ。

小林雅明さんの紹介で知ったビデオだが、なんというか、90年代後半のMTVみたいな印象を受けた。というか、私が一番最初に連想したのは、明らかにJamiroquai『Virtual Insanity』。

このビデオ、動いているのは床ではなく壁だった、という撮影方法の話も合わせて考えてみると、ますます『Gold』も似ているように思えてくる。三人のローラーガールの幻惑的なダンスを、先を走る車からカメラで捉えている感じなのだが、抑えた照明とワンカット風の映像のせいで、ほとんど密室で行われるダンスのようにも見えてくる。ローラーガールが下がったり前に来たり、たまに上下する視点というところも含めて、『Virtual Insanity』なのではないだろうか。そして、アスファルトも電光掲示も実は全てセットで、つまり動いているのは壁ではなく床だったのではないか、といった『Virtual Insanity』の真逆のオチも期待してしまったりする。どのように撮られたのか知りませんが。
 それぞれ、密室の「外側」として用意されているシーンがある。『Virtual Insanity』の血液とカラス、『Gold』の事故車と鹿(の剥製?)である。人工的な密室と対称を描くように生々しいイメージが配されているのだが、前者のそれは流れる血液と羽ばたいてどこかへ飛んでいくカラスであり、つまり動きを同時に与えることで、密室の外側はより強く意識される。対し、後者はChet Fakerの唇以外に動くものはほとんどない。のだが、そのかわり、それらの動きは、戯れるローラーガールを後ろから追い抜かし、動く床と、少し明るくなりかけた空の色を映すカメラの目自体が補完している。つまり、『Gold』を『Virtual Insanity』の批評として捉えるならば、動く床やソファと戯れるように踊るJason Kayを観ているのは、あのカラスであった/あるべきだ、ということになる。映像的なマジックの落としどころというか、一連の映像にある種のストーリーを持たせるという意味では、それは正しいだろうし、「このミュージック・ビデオはドラマである」という宣言にも見える。
 それにしても、このローラーガールの魅力はちょっとすごい。

アラザル9号の原稿、大詰め。