午後5時。寝起きの娘と妻の会話。
◇声がほとんど一緒。
◇朝7時、息子は従兄弟の運動会を観るために、祖父母に連れられて出掛けていった。妻と5ヶ月になる娘と、3人で過ごす土曜日はとても穏やかで、あまり週末のような気がしなかった。
◇今年の春から幼稚園の年中になった息子は、集団生活のなかで、自分を相対化することを覚えた様子。相変わらず幼稚園が楽しくて仕方がないというのは変わらないようなのだが、しかし最近、給食を食べるのが遅いとか、あいうえおが読めないとか、そういったことがストレスになっているようである。
本人が一体どのような気分で言ったのかは不明だが、あるとき別のことで叱られている最中、突然「なんにもできないんだよう」と言って泣きだしたことがあった。これには妻も私も少なからずショックで、こんなに幼いうちから劣等感のようなものを感じてしまうのかと、いたたまれない気持ちになった。しかしよくよく考えてみれば、これは「できないこと」が自覚できているという意味でもある。その意味で、実はわかりやすくチャンスにもなり得るものかもしれない。
本人に周囲がしてやれることは、具体的な体験までの誘導だけである。「できないこと」が「できること」に変化する瞬間に訪れる喜びそのものは、本人が自力で発見するしかないのである。息子はすでにそのコードまでは発見しているので、その意味で私達のやるべきことは明確であった。そして息子は、「できないこと」に戸惑いながらも、別にそれを遠ざけようとしているわけでもないのである。
私達夫婦は、ちょうど今、息子が嬉々としてチャレンジしている自転車のことを思い浮かべた。自転車はそうした知的な喜びに満ちた乗り物なのである。自転車の補助輪を早い段階で外した息子は、そのことが大きな自信になったようで、今日も眠りに落ちる直前まで自転車のことばかり話していた。
◇現在0歳児である娘は、知らない人に話しかけられても堂々と笑顔を返し、あまり泣いたり怒ったりということもない。常に抱っこをしていなければ怒って泣き出していた同じ頃の兄とはまるで違っている。時折姿勢を変えたいときに不満の声をあげるくらいで、いつも基本的に機嫌よく過ごしている。両親や兄のちょっかいにも余裕の笑顔で応え、立派な体格でどっしりと構える娘を見ていると、0歳児を一括りにすることの難しさを実感する。
自分の子供をみているくらいで「一般的な子育て」を想像することなど不可能だし、ひいてはそれは「一般的な家庭」など想定できないことに連なっていくのだろう。
◇古谷実の新連載『ゲレクシス』は、ここに来てようやく様子が見えてきたというか、古谷実流のファンタジーor冒険譚になっていく気配が濃厚に。
◇しかしまずいのは、『サルチネス』は『僕といっしょ』の続編だっていう話と、それがどうやって帰結したのかをまとめる前に、『ヒメアノ〜ル』の映画化があって、ここに来て新連載……。古谷実論を進めなければ。
◇コーエン兄弟『バートンフィンク』。音とその聴取という問題を考えるうえでも良い材料になるような。
これがコーエン兄弟のリメイクした『シャイニング』だというのは以前ここにも書いた記憶があるけれど、音に対するアプローチも同様だと思う。劇中鳴っている音が、ストーリー上で実際に鳴っている「客観的な音」なのか、主人公にしか聞こえていない「主観的な音」なのか、不明瞭になっているという部分も共通している。『バートンフィンク』の場合はおそらく、両者の区別の曖昧さそのものをかなり誇張/強調していて、それは心理的効果を狙うというよりはむしろ、明確にテーマとして前に出してしまったような気がする。
主人公があのホテルで聞いている音は、すべてがどちらともつかない。隣室からは笑っているのか泣いているのかわからない声がする。反対側の隣室からはアベックの営みが聞こえる。仲良くなった客との会話ではつい興奮してしまい、相手の話を遮って自分の声を張り上げてしまったりもする。主人公がある女性と一夜をともにするとき、その声は部屋の排水溝から下水道へと落ち、ホテルの生活音の一部として回収されていく。その直後、主人公は決定的におかしな事態に巻き込まれる。
私達は日常、ノイズを含んだ音のなかから、なんらかの意味役割を付け加えられる音にのみ注目し、それを声として扱っている。その意味ではフロントベルの音も広義の声(「誰かいませんか」という言葉を持っている)であるし、アベックの営みは間違いなく声であるだろう。しかしそのように声と明確に位置づけられない音が、印象的に描かれる。ひとつは、隣りの客の「泣いているのか笑っているのかわからない声」であり、もうひとつが「下水道にこだまする主人公の行為中の声」である。これらは明確な意味役割を担った声としては機能せず、単なる音でしかない。主人公は最終的に「because you didn't listen」と指摘されるが、そのとき彼は、音を自分勝手に都合のいい声に変換してきたことに気がつくのである。
彼はそうして、部屋に飾られた風景のなかに閉じ込められてしまう。音のない絵のなかで、永遠に続く波の音を聴き続ける。
◇昨日シャワーを浴びていると、トイレである筈の隣室から4歳児の声が聞こえてきた。
◇音楽の外側から音楽にアプローチする方法論として、ヒップホップは有効なのだろう。ダウンタウンのGEISHA GIRLSがヒップホップの様式を借りたことにも納得がいく。
GEISHA GIRLSとほぼ同時期にスタートした「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」もまたその実践だったのだろうけど、それのひとつの完成型が、20周年特別番組内で披露された『Wow War Tonight 〜時には起こせよムーブメント〜』だったんじゃないか。
この番組は、非音楽番組としての「トーク」パートと、音楽番組としての「演奏」パートを厳格に区別してきたが、それが融解してしまった瞬間だったのかもしれない。ただのカラオケ大会だが、テレビ芸能史、もしくはJ-POP史として観ると、強度を持ってしまう。