web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後2時半。自転車の往復。

◇娘を抱えながら、息子の自転車が行ったり来たりするのを眺めていた。

◇一家全員風邪気味である。
 水曜日から幼稚園を休んでいる息子は、比較的元気ではあるものの、咳と鼻水が長引いている。今日は微熱もちょっと出ていたため、自宅静養を選択。でもどうしても自転車に乗りたいということで、自宅前で30分だけ楽しんだ。他の家族は全員でそれを見守る。時折自転車を停めて見学をしている私達にタッチをしてくるのだが、妻が出した左手に絆創膏を認めると、反対の手を出せという。タッチをするときに痛くなってしまわないようにとのこと。最近はそういう行動が増えてきた。
 見学中、私は蚊に刺された。

◇兄が自転車を乗りこなす様子に触発されたのか、妹の方は黙々と寝返りに挑戦している。息子が鼻歌まじりに自転車を漕ぐ代わりに、娘はたくましいかけ声とともに体を返す。基本的な体の動きが全て直線的というか、グリッドが粗いので、ふと電池が入っているのではないかと思うことがある。そして寝返りが成功するたびに、またかけ声に似た声をあげて笑う。

◇音楽それ自体が自律しているという考え方はコンサートホールという集中的に音の美を享受する空間を用意したりもするわけだけれども、それはやっぱり記譜を経た音楽だからだろう。
 ヒップホップのような音楽は、便宜上リリックを書き留めたりもするわけだが、基本的にその通り発声することはなく、50音に明確に区分されない曖昧な音を使ってラップする。そのとき、文字上では異なる母音を持った単語同士であっても、無理矢理押韻してしまったりする。アメリカの場合はもっとそれが激しく、名詞の末尾に「~ly」をくっつけて他の副詞や形容詞と踏むことすらあって、ようするにヒップホップは記譜と限りなく無縁な音楽といえる。
 ヒップホップは、音楽的な評価とは別の評価軸を常に用意していて、同じ音楽でも鳴らされる場所や状況によって全く異なる価値を生む。もちろん音楽的な——普遍的な評価をそこに与えることも可能だろうが、その一方で極めて即時的な評価も下され続ける。これはおそらく、鳴らされたそばからすぐに消えていく音声、物質としての音であり、本来消えていく筈の音が記録されてしまう、ということの二重性みたいなものなのかもしれない。

◇文字の記録がもたらす近代化と、音声の記録がもたらす近代化を比較するにあたって、「エクリチュール」と「存在の声」を咀嚼することが必要になってくるのだろうなと思っている。だから東浩紀を読む。

クラフトワーク好きの息子が、iPodを操作して居間を盛り上げている。

父と母と妹を呼び寄せ、自らもステップを踏むなど大変盛り上がっているわけだけれども、全然静養にならない。
 案の定、夕方疲れてからはささいなことで泣き出し、妹に助けを求めていた。娘はとにかく嬉しそうに笑顔を返すだけである。