web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後7時。蛙を2匹放す。

◇昨夜までおたまじゃくしだったのが、今朝には尻尾がほとんどなくなっていた。息子と蛙になったおたまじゃくしの様子を確認しながら、今日中に放してやることに決めた。
 4歳男児によれば、周囲の環境によって色を変えることができるから「かえる」で、おたまじゃくしはそれが無理だから「かえない」と呼ぶのだそう。

◇結局蛙を近所の田んぼに還したのは、夕食後になった。朝には洗濯機の引き取り、昼は妻の実家で誕生日ランチパーティ、その後息子と明日の準備でブラウニーづくりをしていたら、あっという間に夕食になってしまった。子供の夏休みは1日が早い。
 田んぼにつき、水槽代わりにつかっていた虫かごの蓋を開けるが、蛙たちはなかなか出てこない。もう眠くなっちゃったのかもしれないねと言い合って観察を続けていると、おっかなびっくり息子が1匹の蛙をすくって放してやった。これまで息子は蛙の本も好きだし観察も好きだったが、触れなかったのだ。
 2匹目もすくい出すと、その蛙はすぐには水に飛び込まないで、少しの間虫かごの淵に座っていた。

◇妻は鼻歌の多い人だが、それを普段から聴いている息子にも鼻歌が多い。今朝は『マイ・ウェイ』をハミングしていた。
 妻の方は基本的にメロディをハミングするだけだが、息子の方はたまにオリジナルの歌詞を乗せる。やはりこちらも妻がよく鼻歌でハミングするアンジェラアキの『手紙』という曲だが、なぜか「生ゴミ」という単語だけで一曲成立させたりする。字余りとか字足らずはなまごみ→なまごごみ→なまごみみみみという風に処理していて、ちょっと面白い。

◇娘の方は、おしゃべりが楽しいらしい。父母兄が食卓を囲んで会話をしていると、同席している娘もそこに入ってきて、発話の妙を楽しんでいる。だから我が家は文字通り口数の多い状態が続いている。
 相手の発声を受けて、こちらからも発声する場であるところまでは理解しているらしく、割とインタラクティブなやり取りになっている。それがことばであると認識するのはいつなのだろうか。というかもう認識しているのだろうか。
 発話の妙を楽しむことと、ことばを話すことの楽しみは同根であったことを思い出す。

日本語ラップ批評ナイトに行ってきた。終わり間近に駆け込んだと思ったが、ありがたいことに延長してくれたのでそこから2時間近く観覧することができた。
 延長戦は、日本語ラップに対して批評は何ができるのかというところを出発点に、4人の登壇者が語り合うことになった。たしかに批評は常に対象の外側にあるものなので設定それ自体は頷けるが、とはいえしかし、こうしたテーマは時折、シーンの外側に特権的な「外野」というポジションを獲得することだったり、シーンの人間関係との距離の取り方といった程度の話と混同されてしまう危険を孕む。対象に対する外からの視点を獲得することと個人的な人間関係や立ち居振る舞いの話は当然別の問題だし、あるいは反対に批評対象から反論されない安全圏からの批評などというものも存在しない。身内の発表した作品に批評的な視線を介在させることができるならば、それは理想的なコミュニティを形成し、というかまさにヒップホップはそのようにして動いてきた。
 批評がない状態というのは、ある種のポピュラーミュージックが迷い込む共感か否かで全てが決する世界のことである。ヒップホップは細かいトライブを形成しやすいカルチャーだが、各トライブは常に覇権争いをしていて、それらがひとつの価値観に基づいた統一的なトライブを形成することなど目論んでいない。シーン全体としては共感よりも批評の方が上に立ちやすい傾向にある。少なくとも現在のところは。
 トラックに対する批評であり解釈であるのがラップだし、それに対する批評もまた、例えば楽曲へのディスだったり、あるいは客演だったりといった形で表現される。当然のことながら、批評は文章によってのみなされるわけではなく、そしてまた表現と対立するものでもない。あらゆる創作行為が批評行為を内包している。だから「○○に対して批評は何をもたらすのか」といった問いはたくさんあれど、少なくともヒップホップカルチャーに限っていえば、それに対する回答は、ラップが噴出します、ということでしかなくなってしまう。
 ラッパーと批評家を分割してしまうのではなく、むしろ異分野の同業と看做す方が自然なのではないかと思っている。

アラザルでやってる『ラッパー宣言』という連載は、ラッパーとして文章を書いている。ラップという言語を使用するのではなく、文章という言語を使用して対象との距離を言葉にする。つまり、対象と自分の間にある距離を言葉にすることが批評であり、それはラッパーが与えられた一定時間のヴァースの上で言葉を紡ぐことと同じである。言うだけ野暮だけど、何がラッパー宣言なのかあらためて言うと、文章という言語を使って時間=距離を言葉にしていく私もラッパーなんですよ、ということだったりする。

◇トラックの批評としてラップが乗る。そのラップの批評として更にラップが乗る。