web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

「童貞。をプロデュースの現実」vs.「加賀賢三氏の現実」はあり得ない

◇『童貞。をプロデュース』の舞台挨拶で、松江哲明監督に童貞1号役を演じた加賀賢三さんが告発をしたらしい。いつ削除されるかもわからないけれど、とりあえず現時点ではyoutubeでその様子が確認できる。

◇たしか下北沢のシネマアートンだったろうか。加賀さんが出演した第一作の『童貞。をプロデュース』を観て、そのいくらか後に梅沢さんを主人公にした『童貞。をプロデュース2』も観て、それから10年前の池袋シネマロサで現在の編集版『童貞。をプロデュース』を2回観たと思う。それから当時、この作品に関するブログや記事も結構読んでいたと思う。それだけこの作品は当時の、そして今の、私に重要な問題意識を残したということである。
 その辺りは、アラザル1号目『古谷実論』と2号目『童貞論』にまとめてあって、基本的な考え方はそこに詰まっているんじゃないかと思う。再読してないのでわからないが。
 まあそれはいいとして、今回は童貞的自意識の話とかよりも、先日の一件によって、ドキュメンタリが提出する現実について思いをはせることになった。というのも、『童貞。をプロデュース』が提出した問題のなかで、当時の私は童貞考察の部分しか考えていなかったのを思い出した。これは必ずしも『童貞。をプロデュース』に限った話ではないが、『あんにょんキムチ』からずっと、松江監督は確固たるドキュメンタリ論を展開していると考えられるからである。今回の騒動は、まさにその論に基づいた作品づくりの結果でもあるからだ。
 ちなみに、私は舞台挨拶には行くつもりはなかったが、今回の上映期間中に再観賞するつもりではあった。個人的には残念だが、仕方がないことでもあるし、今後の展開に期待する方向で考えたい。

◇『童貞。をプロデュース』、および今回の一件を考えるにあたって、前提として踏まえておかなければならないことがある。森達也ドキュメンタリーは嘘をつく』の主題である。
 松江監督はデビュー作である『あんにょんキムチ』から今まで、この『ドキュ嘘』で語られるようなことを念頭に置きながら、ドキュメンタリ作品をつくり続けていると思う。
 『ドキュ嘘』が否定するのは、「フィクションとは違ってドキュメンタリは、実際に起きている現実をそのまま映すものである。だからそれは真実を映す鏡であるに違いない」という素朴で純情な認識だ。しかしそれを否定するからといって、ドキュメンタリは「嘘である」と言い切るわけでもない。そこに映った事実の一側面を浮かび上がらせるのがドキュメンタリなのであって、だからこの作品のタイトルは、「嘘をつく」に留まる。つまり嘘は悪ではない。嘘はどうしても映り込むだろうし、あるいは積極的に嘘を投入していくことで事実を浮かび上がらせることもできるのである。

◇その意味でいえば、ドキュメンタリはフィクションのいちジャンルであると考えることも可能だろう。ただ、ドキュメンタリの場合は、作品を構成する素材が現実に存在しているものである。私たちが生活を営むこの世界と地続きのものである。まさにそれが、今回のような一件を引き起こしやすくなる要因ではある。

◇いくらドキュメンタリといえども、作品として、つまり一個の完結した世界を作る以上は、それは作品内世界に閉じる。そこで描かれる世界にアクセスするためには、観賞という手段しかない。制作者であれ、出演者であれ、ひとつの作品がすでに出来上がった以上は、全ての人間は観賞という形でしか作品の世界に接触することはできない。もちろん、ドキュメンタリの場合はその作品に登場する人物も、扱われる事件も実在するし、だからそれら作品の構成素材自体に直接接触することはできるはずだ。しかし、結果的に作品に描かれる世界には、その作品の「鑑賞」なくしては触れることができない。フィクションのいちジャンルであるというのはそういう意味だ。
 だから「観賞」は、当事者としてその作品の世界に飛び込む行為となる。観賞という行為を介すことによって、作品に描かれる世界は「現実」となる。作り話である小説に心打たれるのは、それが現実として鑑賞者に迫るからだ。
 基本的に観賞は、安全圏から他人事のように眺めるということではない。鑑賞者は常に集中力を持って当事者性を持つ努力を強いられるし、あるいは他人事として鑑賞されることを想定して作られる作品は、一般的に駄作とされる。

◇『童貞。をプロデュース』は、加賀氏が糾弾する例のシーンも、前編最後の突き刺さるようにまっすぐカメラを見つめる女の子の目線も、後編の梅ちゃんのスクラップ制作過程も、監督した映像作品も、あらゆる場面に痛みが満ちていた。鑑賞者はまさに当事者としてこれらの出来事を体験することになる。
 作品の力のみによって鑑賞者に当事者性を持たせることができるという意味で、これは優れたドキュメンタリだったと思う。そしてもちろん、それは優れたフィクションであることをも意味している。しかし当然のことながら、観賞という行為を介さない限りアクセスできない現実であり、ビデオカメラなくしては立ち上がらない現実である。だから、松江哲明のビデオカメラがないまま、この作品内で起きた出来事を眺めたら、それは『童貞。をプロデュース』に描かれた世界を作らないし、また別種の現実が起きているはずだ。
 松江監督のビデオカメラなしで、同じ出来事を目撃・体験したのが、加賀賢三氏であるのは言うまでもない。

◇今回の舞台挨拶上の告発は、『童貞。をプロデュース』という「作品が提出する現実」と「加賀賢三の現実」が激しく衝突した例となった。

◇ここで重要なのは、これが作品上映後の舞台挨拶という極めてあいまいな場で行われたことだった。その場に居合わせる人はおそらく、作品の延長線上の人物として彼らを捉えることになるだろう。ドキュメンタリはフィクションではあるが、私たちが暮らすこの世界のうえに「別の世界」を作りあげる類のフィクションだからだ。しかし、フィクションの宿命である「作品の提示する世界には、観賞以外にアクセスする手段はない」に則て考えるならば、舞台挨拶の場で起きることは、作品のある位相とはズレた、また別の現実である。上映後の舞台にドキュメンタリの出演者があがるということ自体、こうした極めてあいまいな場を用意する。
 加賀さんとのやり取りのなかで、松江監督が放った「俺は今この場ではそういう話はしない」という発言は、観賞以外の方法で、作品の外から『童貞。をプロデュース』の世界に触れることへの拒否だったのだと思う。それは作家としては当然の態度だろう。

◇その視点に則るならば、実際に強要があったか否か、実際に傷ついた人がいるのか否か、というのは確かに作品とは無関係の話になる。ただ、とはいえ松江監督や加賀さんの人間関係や社会生活上の問題としては、それは大問題であり、監督としてではなく、人間としてどうこの問題に接するのかという問題は突きつけられて然るべきだろう。
 つまり「加賀賢三の現実」と「童貞。をプロデュースの現実」の勝負にはなり得ない。「加賀賢三の現実」が、事実としてどうだったのかを重視するならば、それは「松江哲明の現実」と「加賀賢三の現実」の戦いに過ぎない。そちらの方は事実の検証なり法廷闘争なりで戦うことになるだろうが、加賀さんがもしも「童貞。をプロデュースの現実」と戦うのならば、加賀さんはなんらかの形で作品を作らなければならないのである。
 そしてそう考えると、舞台挨拶上で引き起こされたあの一連の騒動そのものが、「加賀さんが作品として提出した現実」なのではないか、と思えてくる。つまり、上映後の余韻が残る状態――童貞1号という役がうっすらまとわりついている状態から、それとはまったく違う現実を提示して見せることに、あの場に居合わせた人はまずショックを受けるだろう。ただ、そのショックは、『童貞。をプロデュース』という映像作品の強さの証明でもあることは考えておかなければいけない。

◇ところで、この話と直接関係ないところで個人的に気になるのは、上映後の舞台挨拶というのは作品の延長線上にあるだろうか、ということ。上に述べたように、もちろん原理的には延長でもなんでもなく、別モノではある。そうではなく、感覚的に、延長線上に感じるような実感が、いま、どれだけの人に共有されるだろうか、ということ。
 言い換えれば、これは松江監督があの物語をどこまでリアルガチだと思わせたかったのかという話だし、『童貞。をプロデュース』がなぜドキュメンタリとして制作されなければならなかったのかという話でもある。おそらくは、ドキュメンタリの文法を駆使するのに長けているから、というのが実制作上の理由だろう。その手法を徹底的に駆使することでしか立ち上がらない世界ではある、たしかに。ただ、私が気になるのはむしろ、ドキュメンタリの手法を用いることで、あの作品がこれだけのプロップスを集めたという、その現象が気になるのである。
 そしてこれはなんとなくなのだが、おそらくSNS的な感性と無関係ではないと思う。『童貞。をプロデュース』制作時期に照らせば、web2.0とか言った方がいいんだろうけれども。
 つまり、当事者意識の話だ。


※上記記事は以下ブログより抜粋。
2017-08-27 - 日々:文音体触 〜compose&contact〜