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web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

2016年日本語ラップベスト

◇昨年は諸事情から辞退させていただいたmiseさんのところの日本語ラップ年間ベスト。2016年は参加させていただいた。

◇『2016 BEST act In 日本語ラップ(Selected by 安東三)』→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52253560.html
 “国民的歌手”宇多田ヒカルにKOHHがフックアップされた2016年。KOHHをどうにかして言語化しようとする日本語ラップ批評(?)よりも先に、一気にど真ん中に突き抜けてしまった感すらある。KOHHの客演はフックアップであるだけでなく、ある種の逆輸入アーティストとしての側面も持ち合わせていて、「KOHHはゲイシャガールズのリアルなやつ」と言い換えてもいい。
 フリースタイルダンジョンの成功も含めて、日本のテレビ芸能的な位置づけを考えてみる必要性が一気に高まったのが、2016年の日本語ラップシーンだった。

◇『2016 BEST ALBUMs In 日本語ラップ(Selected by 安東三)』→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52253562.html
 2016年は、言ってしまえばKOHH不在の年であり、ポストトラップの年でもある。いや、全然KOHHは居たし、トラップの猛威は相変わらずだったわけだけど。
 長らく、日本語ラップは逡巡をテーマにしていた。人種差別や貧富の差を歌うことの逡巡、ギャングでないことの逡巡、あるいは自意識の逡巡、そしてヒップホップをすることの逡巡。それらは音楽の上で、リリックの上で、はたまたファッションや姿勢や立ち居振る舞いの上で、直接的あるいは間接的にヒップホップに反映されていた。
 そういった逡巡が生み出す「アイデンティティの揺らぎ」によって、USヒップホップの内包する「アイデンティティの揺らぎ」と響き合う構造を持っていたようにも思う。
 しかし、もはやそうした二重に捻じれたアイデンティティの揺らぎはもはや必要なくなってきたのが、2000年代以降の日本語ラップが歩んできた道だったのかもしれない。
 KOHHはそうした世代の頂点だったと思うし、それは世界的にも共通した動きだった。よって、ワールドワイドにバズったりもしたのだろう。
 2016年は、逡巡なき日本語ラップがいよいよ極まるなかで、あらためて90年代からの日本語ラップとの再接続が試みられるような、そんな動きが見えた気がした。

◇気づけば、今回の10作品は、概ね上位3作品のいずれかの方向に分類されるように選んでいた。
 3位の『田中面サウンドトラック』は、一時期までのサンクラ/ディジタルディガー層を一気に取り込むと同時に、単純に「いい音楽ファン」にもリーチし、おそらく今後のコミュニティミュージックの在り方をいち早く提示していた。もちろんそうした一連の動きは田中面舞踏会の第一回から形になっていたわけだけど、音源として1枚に収めたという意味で、そしてそれがどんな方面にも目配せしているという意味で、極めて音楽的にコンセプトを達成したんじゃないかと思う。
 2位のKANDYTOWNは、どう考えても2016年のニューヒーロー。90年代信仰のうるさ型ヒップホップヘッズを音楽的にもレトリック的にも黙らせる日本語ラップの「正統派」感も出しつつ、サグなギャングもいいとこの子もUSもJPもラップすりゃみんな平等的な価値観で、リアルとかフェイクとかを端から問題にしない。“my house is a your home”のラインのやさしさに泣きそうになってしまったりしながら、「みんなで広げるホーミーの輪」を本気で信じられる気がしていた。草刈正雄浜田雅功の子供たち世代がこういうことを言っているという意味でも、次のフェーズに入った感じがする。

◇ある種のバックラッシュで評価されてる部分はあるかもしれないけど、しかし昨年彼らの登場を目撃できたのは圧倒的に良いことなんじゃないかと思う。

◇パブリック娘。を1位に選んだのは2011年以来、2作連続。正直、ひいきのアーティストを1位に、しかも2回連続で選ぶというのは、選者としては結構勇気のいるセレクトだったけど、胸を張って挙げさせていただいた。
 「ぶっきらぼうに見えて器用」なラッパーの系譜はキミドリからやけのはらまで連綿と続いているわけだけど、パブリック娘。はそこに貪欲な「非」アーティスト性を盛り込もうとする。ともすれば「ナード系」とか「文化系ヒップホップ」に回収されそうなところをギリギリで避けることができているのは、たぶん「文学性」やら「音楽性」といったアーティストっぽさを上手に回避して、「社交性」を前に出しているからなんじゃないか。
 もちろん、だからといってパブリック娘。が文学性やら音楽性やらが希薄なグループだと言いたいわけではない。ただ単に、そういった文化系受けしそうな自意識の逡巡をテーマにしていない、ということである。その意味で、2位のKANDYTOWNと非常に近いところでラップをしているようにも見えるし、見えている景色も似ているのかもしれない。
 学生時代にリリースした過去作からの変化という点では、社会人になってもリリックの巧みさは相変わらずで、そしてなんと、ラップがうまくなっている! しかしうまくなっているにも関わらず初々しさがあるというか、声の出し方がいまだに全然こなれていないというのは、これは絶対に狙ってやっていることだと思う。

◇2016年は出張の機会が以前より増えたんだけど、KANDYTOWNとパブリック娘。を交互にかけながら、新幹線の窓から外を見てみたりした。



2017-01-03 - 日々:文音体触 〜compose&contact〜
より抜粋

クリストファー・ノーラン『インターステラー』

クリストファー・ノーランインターステラー』。宇宙とタイムトラベルと親子。

 ネタバレ前提で書きます。
 『2001年宇宙の旅』との関連から書くと、「人智」の範囲を広げるという『インターステラー』の姿勢は、そのままHALとモノリスを合体させた人工知能キャラクターに表われる。かつて表象(≒理解)可能か不可能かという意味において厳格に区別されていたHALとモノリスは、『インターステラー』においてはひとつの人工知能、つまり理解の内側の存在にされてしまう。あの異様な手触りを伴う直方体は、「映像化不可能」を示す記号としての役割をやめ、おそらく工学デザイン的な意味を担うに留まっているし、『インターステラー』に登場する人工知能たちは、人間の予測に反して叛乱を起こすHALと対照的に、どこまでも人間に忠実であり続ける。彼らを放っておいても「裏切り」という未曾有の事態は発生せず、つまり人智を超えることは、ここでは人工知能の発達とは無関係の出来事にされている。
 では、限界・不可能の突破=人智の拡張はどうやって可能になるのか。言い換えれば、モノリスが担っていた「映像の外側」は、『インターステラー』においては、どこに描かれているのだろうか。
 ひとつ、ここで言う「限界」は「重力の制御」のことであり、これの可否によって、人類が他惑星に移住できるかどうかが決定する。重力はつまり、光や、音や、そして時間という形を借りて表現されるが、劇中、こういった「重力」を自在にコントロールする人間の姿が描かれる。首を傾けてロケットを眺めるマシュー・マコノヒーは、重力に担保された視点を変調させ、宇宙空間に地球の環境音をかぶせてしまうデヴィッド・オイェロウォは、重力に左右されずに音を持ち運んでいる。その延長線上に置かれた父と娘の交信は、だから唐突なものでもなんでもなく、あり得べきものとなる。なぜなら、私たちはすでに、物語をつむぐことによって、時間=重力を自在に制御しているからだ。
 ところで、『2001年宇宙の旅』が示したもので最も重大なものは、モノリスの手触りだろう。猿の群れのなかに屹立するモノリスも、宇宙空間に浮かぶモノリスも、その周囲と溶け込むようで溶け込まず、異物としての違和感を常に纏っていた。モノリスだけが、その他の事物と異なった位相にあり、映画のなかに、ただただそのままとんと置かれてしまった立体である。それを理解の内側に置こうとするかどうかの議論は置いておいて、ひとまずそうした立体を描写してしまうのが『2001年宇宙の旅』である。ここを起点として議論を展開させ、モノリスに触れる道を決断したのが『インターステラー』なのではないかと思う。異なる位相・次元のものに、触れるということ*1
 例えば、モノリスとの「距離」は、映画とそれを観る者の「関係」に置き換えられたのだとも言える。5次元空間のなかに3次元空間が出現することも、23年分のメッセージを一気に受信するまでの流れを目撃することも、折り曲げた紙にペンを貫通させてワームホールを説明することも、全て作品の内側に丁寧に描かれた「外側」である。しかしにも関わらず、ともすれば作品に穴を開けてしまう強靭な「外側」の力に依存することなく、作品それ自体の自律性を高めていくことができたからこそ、『インターステラー』は異なる位相にあるはずの内側と外側の接触(の描写)に成功したのではないだろうか。接触を接触足らしめるのは、同一化の欲求ではなく、相互に自律しようとする欲望であるはずだからだ。

◇それにしても、23年分のメッセージの再生には嗚咽をこらえ切れなかった…。こういったヒューマンドラマとしての演出こそがこの作品の核であり、上に書いたように、作品の内部と外部をしっかり分け隔て、後の「接触」に必要な要素になっている。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20141208より、一部抜粋。

*1:もしかしたら、その挑戦はモノリスに触れようとして火達磨になった『2010年』以来かもしれない

「サンプリングとパクリは違うのか」について、何度でも考える。

◇Funky Drummer。

◇サンプリングとパクリは、ある見方に立てば明確に区別されるし、また別の見方に立てば全然区別がつかないことになったりもする。なんとも穏当な結論だけれど、これらはつまり、サンプリングの定義というよりはむしろ、パクリという語の用法の問題なのだと思う。
 パクリを揶揄として使っているとき、つまりそれは、パクられ元の方がパクった側より価値の高いもの、と捉えられている。サンプリングは、オリジナルとシミュラークルの間にヒエラルキーを作っているわけではないので、両者は全然違うものだと言える。
 ただ、オリジナルとシミュラークルの間に上下関係がない故に、起こってしまうパクリというものもある。署名の問題、ようするに盗作の話。言い換えればそれは作家性に無頓着だということだけど、サンプリングは基本的にそうなわけで、あるいは盗作を「元のテクストを完全に無視すること」と言ってしまうと、いよいよそれはサンプリングの説明じみてくる。
 あるテクストのなかに位置づけられている言葉を、そこから抜き取って全く別のコンテクストのなかに放り込んでしまったら、元のテクストというのは完全に無視されてしまうことになる。引用とサンプリングは、その意味で認識的には別のことだと考えていい。それは、クリエイティヴィティというものを、作家の内面みたいなものとは完全に分けて考えている、ということでもある。作品は作品であって、作家の精神などではなく、手触りを持った物質である。愛とかリスペクトとかとは別次元のところで、まず作品は物質としての使命を持ち、だから自分の作品が誰かの作品のツールとなることも容易に想定できる。

◇ところでややこしい話だけれど、技術としての「サンプリング」は、引用を行う場合もある。全然ある。引用とサンプリングを認識として分かつのは、そのネタの使われている様子を確認してからの話である。元テクストの意味を踏襲するのか、完全に無視するのか。
 いずれにせよ、何度も繰り返される「サンプリングとパクリは違うのか論争」を眺めながら思うのは、ある表現・作品のアーカイヴがある程度蓄積されると、作品それ自体が「言葉」として使用されるようになる、ということ。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20140615より一部抜粋。

web版:MOMENTインタビュー(アラザル掲載原稿より抜粋)

◇以下のインタビューは、アラザル本誌に掲載予定の『MOMENTインタビュー(仮題)』からの抜粋です。
 3月17日、MOMENTのsoundcloud上に新曲『Fight Club』が突然アップされました(→http://soundcloud.com/swagcat-joon/fightclub-control-remix)。ここで彼は、Kendrick Lamarが旋風を巻き起こしたBig Sean『Control』をビートジャックしつつ、各方面のラッパーについて言及しています。MOMENTは、なぜこのビートのうえで、何を意図して『Fight Club』を発表したのか。そのコンセプトについて語っている部分を中心に再編集し、本誌より一足先に公開します。
※註:このインタビューは、3月6日に行われました。

web版:MOMENTインタビュー

(略)
 金正恩が第一書記に就き、朴槿恵安倍晋三が相次いで大統領と内閣総理大臣に就任した2012年。日本語ラップシーンにとっては、アップカミングなアーティストとして注目を集めていたMOMENTが、韓国軍に入隊した年である。
 日本語・英語・韓国語を跨ぐ韻で、豊かなグルーヴを魅せることの出来るこのラッパーは、韓国で生まれ育ち、2010年の大阪大学入学と同時に日本での活動を始めた。阪大ヒップホップサークルのMASTERMINDに入って、精力的にライヴやレコーディングをこなしながら、2012年4月12日の入隊直前まで、わずか2年ほどの間に数多くの音源を発表している。この間にリリースされた3本のMIXTAPEと1枚のEPは、いずれも耳の早いヘッズの間で話題となり、今後の活躍に大きな期待が寄せられていた。徴兵は、そんな矢先のことであった。
 2014年1月2日まで続く21ヶ月の兵役期間は、さすがのMOMENTもシーンを離れ、活動の休眠を強いられるものと思われた。しかし彼はそんな大方の予想を裏切って、体力勝負の軍隊生活を送る一方で、食事の時間を削りながらリリックを書き溜め、少ない休暇を全てレコーディングに費やしながら、音源を発表し続けた。結果、この期間中に『THE GAME WAITS ME vol.1』『vol.2』というふたつのミックステープまでリリースすることになる。移り変わりの早い日本語ラップシーンにおいて、MOMENTはこの2年間、しっかりとその存在感を示し、除隊後の本格復帰までに、新しいリスナーを獲得し続けることとなった。
 2014年の3月。本格的な活動再開の準備として、東京に訪れていたMOMENTに、今の心境、及びこれまでとこれからの活動について、じっくり語ってもらった。


(略)
――軍隊生活を経て、今の日本社会はどんな風に見えていますか?

M:まず、これは変わってないところですが、日本は相変わらず平和です。良い言い方をすれば平和ということなんですが、だけどそれは競争心が足りないってことでもあって、悪く言えば退屈でもあるんです。『Control』の事件*1は、僕が軍隊にいる間に起きた出来事です。アメリカはもちろんのこと、全世界のヒップホップファンの間ですごく盛り上がって、韓国のラッパーでさえ、あのビートのうえで何十人ラップしたかわからない。そこではディスもありましたが、基本的にはみんなトップになりたいって思いをもって、このゲームに乗ったんです。

――自分を、全世界のヒップホップシーンのなかに位置づけている、ということですね。

M:でも日本でビートジャックしてたのって、3~4人くらいしかいなかったですよ。よかったものもありましたけど、全体的にあんまりっていう感じでしたし。そういう状況見てたら、やっぱりどうしても、競争心が足りてないんじゃないかって。

――例えば、MCバトルのようなものは、最近の日本でも定着しつつありますが、そういった意味での競争とは、どう違いますか?

M:バトルはあるけど、バトルラッパーはバトルラッパー同士でやってるし、それでひとつのジャンルになってしまったような気がします。彼らがヒップホップを音楽として捉えて、広い世界のヒップホップシーンまで見据えて競争してるかっていったら、疑問です。R指定の今回のシングルだって……、正直彼のラップ自体は好きなんですが、でも「日本語ラップ聴いて日本語ラップやりました」っていう、典型的な作品に聴こえました。それじゃあ意味がないがないんじゃないか。だから、『Control』で僕がやろうと思うんです。

――ディスるんですか?

M:ディスじゃなくて挑発ですね。もっとお前らもやって欲しいって呼びかけるんです。Jinnmenusagi、Kiano Jones、Ry-lax、RAq、Kojoe、MATCHとかに。それから、R指定やチプルソも入れようと思っています。R指定とかチプルソは、同じシーンでも僕のようなスタイルと違う系統というイメージを持っているリスナーも多いと思うんです。僕から彼らに対しても呼びかけるのは、その系統で間違いなくトップだからです。トップがもっと広い世界を視野に入れて、他のものも吸収して、もっと上のレベルで新しいものを見せれば、下のやつらの耳も広がると思うんです。そういう意味では、この前、『HEYLAS』*2がありましたが、Ken(the 390)さんディスるわけじゃないんですけど、ビート選びが違うと思いました。こんなサウンドでやるのか?って。世界的に見れば、『Yeezus』なんてのがもうあるのに。

――他のラッパーは、どんな理由で?

M:JinmenusagiはLOW HIGH WHO?でやってる、本当に、僕個人的にはハードウェアだけで見れば日本で一番ラップがうまいと思う人です。Kiano Jonesはまだ中学生ながらアップカミングな存在として注目されている黒人とのハーフ。Kojoeは海外のものを日本に持ってきてやってる。そんな風にそれぞれが、全員全然違う場所でやってるけど、全員競争心あるってことは俺にはわかる、だからお前らもやれよって。俺は彼らが返してくれれば、別に殺されてもいいんですよ。うまいアンサーが来て俺が負けても、俺には損することなんて何も無いから。

――こういうゲームが設定できれば、その時点でまず勝ちって言えると思います。『Control』のKendrickも、確かに喝を入れてるようなところがありました。

M:『Control』のビートジャックは、いまさらって感じもあるし、やらなくてもいいかなって思ったりもしたんですけど、やっぱり日本帰ってきてみると、この状態に耐えられなかったです。今の日本語ラップシーンのなかに目を向けると、小さな島がたくさん点在してるけど、それぞれの交流があんまりない。競争がなくて、コミュニケーションがないっていうことが、すごいしんどいなあって。


 MOMENTの指摘するように、日本語ラップのプレイヤーのなかで、ヒップホップシーン全体をひとつのゲームと捉える者の方が、むしろ少数派なのかもしれない。少なくとも、日本語ラップシーンと洋ラップシーンを分けて考える流れは、いつのまにか普通のことになってしまった。日本だけが世界の競争から隔絶され、誰からも脅かされないことを望んでいるようにも見えてしまう。
 こうした隔絶への憧憬(ショウケイ)は、時として排他的な態度にも結びつく。安易に結びつけたくもない話だが、例えばネトウヨ的な心性は、何か都合の悪いことが起きるたびに「これは日本人の仕業ではない」などと発言する。その姿は、社会と、誰からも脅かされない自分の部屋を、同一線上に配置する者の成れの果てと言えるだろう。「競争がない」という指摘は、こうしたプライベートな部屋以外の場所が見当たらないことであり、つまり、パブリックな場所が用意されていないことでもある。競争は、同じルールのもとで、個々の違いを提示し合う。ルールの共有を前提とする「公共」が用意されて、はじめて個々の違いは認識され、共存を感覚することも可能になるが、しかし、そもそもそうしたルールの共有すら設定できない状況下では、個々の違いはなかったこととされ、あらゆる存在には全肯定か全否定のどちらかの態度しか用意されない。


M:日本は、僕が入隊する前に比べて、もっと「外人大嫌い」って風潮が強くなりました。毎日ふわふわして、平和っぽい雰囲気のなかで、ありがとうばっか言ってるJポップとか聴いて…。それ自体を悪いとは言わないけど、でも、ふわふわした雰囲気のなかで、何事も受け身で、考えることをしないって人ほど、政治家とかが何か言い出したら、簡単に巻き込まれて外国嫌いになる。でも、僕は個人的には、ヒップホップならそんな態度を変えられると思うんです。今の日本から抜けてるものを、ヒップホップは全部持ってる。自発的だし、レベルミュージックでもあるし、と同時に、物欲とか成功欲とか、そういう欲望にも素直だし、だから競争もするし。個人的に僕は、ヒップホップこそが日本社会を救えるツールだと思ってるんです。

――日本語ラップは、日本社会をそのまま写し取る側面が強いと思います。だからといって、日本社会が競争心を失っている様子まで模倣し始めたら、かなり厳しいです。

M:ただ、僕が日本語ラップのプレイヤーのひとりとしてこういうことをやっても、「外国人の目」みたいな感じでカテゴライズされるかもしれなくて…。それは心配だったりします。

――正直、その危険性はあると思います。それこそ細分化された日本語ラップの島のひとつにされちゃって、どうあがいてもコミュニケーションが生まれなくなってしまう。カテゴライズされると、「こういう人」としか見てもらえなくなりますね。

(略)
M:例えば僕自身のことを言えば、競争しろって思ってたり、反レイシズムの立場だったりするし、ラップのなかでそういうことを煽ったりします。でも、だからと言って、何かひとつの枠組みにカテゴライズされることは嫌いなんです。

――「外国人視点」とか、「コンシャスラッパー」とか。

M:実際、デモの主催者の人とかからパフォーマンスの依頼が来たりもします。確かにそういうところでラップしたら、かなり盛り上がるとは思います。でも、それはちょっと違うんじゃないかって思うんです。

――と、いうのは?

M:芸術はどこまで芸術なのかって話になっちゃいますけど、僕がラップでやろうとしてることって、自分の考えとか意見を論理的に説明して、相手に理解を求めるってことではないんです。それなら、きちんと論理的に書いた文章とかでやるのが筋です。ラップって、だから、モチベーションを上げたり、高揚させたりするだけです。はっきり言って、これって危険なことですよ。

――おっしゃる通りだと思います。ラップが扱うトピックは、ラップを前に進めるためのエンジンにはなります。だけどMOMENTさんは、そこから先については、やはり芸術の領域として扱うべきだ、という立場ですね。

M:僕がライヴの最中に政治的な立場を表明したとしても、お客さんに同意してもらいたくて言ってるわけではないし、ただひとりの人間として表明しているだけです。大事なのは技芸(クラフト)としてのラップです。キングギドラだって、右翼な内容のラップしてますけど、それとは別に、きちんとラップの巧さ、渋さが魅力的だし、そこに到達するまでの努力とか才能に対して、僕はちゃんとプロップスを持ちます。

――ラッパーの主義主張と、ラップっていう表現の間には、きちんと線を引いておく、と。

M:自分はラップでモチベーションを上げるだけです。モチベーション上がって、現実的にパブリックな場に出ていって、政治的なアクションを起こしたいっていう人々は、それはそれで彼らの役目としてやってもらえばよくて、僕はそことは関わらない方がいいって思っています。そうしておかないと、僕が彼らの思ってることを代弁するみたいな感じになっちゃうし。

――ラップがラッパーの主義主張を伝えるためだけにある、と考えてしまうと、ラップの表現力みたいなものには注意が行かなくなりますね。当然の話ですが、MOMENTさんのラップには自分の主張を前に出したものもありますけれども、もっと多くのラップが、別のテーマから成り立っています。

M:仮に僕が政治的アクションを必要として、目的にしているんであれば、ふたつをはっきり分けなくてもいいのかもしれない。でも、僕はもっとパーソナルな部分も話したがっているし、決してそこが本質ではないんです。ひとつのカテゴリーに押し込まれることで、そうした部分が捨てられることは避けたいと、強く思っています。


(略)
 MOMENTはこの後、次のミックステープ/EPの予定や、客演について語った後、ソロアルバムの構想についても聴かせてくれた。明確なコンセプトとトラックリストも決まっていて、ビートはまだないが、すでにリリックも書き始めているという。『EASY WORLD, TROUBLED CHILD』というタイトルの冠されるそれは、かなり細かいところまでプロットが立てられており、その底部には、彼の思索的ともいえる文学的逡巡が流れている。ディテールを伴った語り口でイメージを伝えてもらったが、絶対に作品に昇華されなければならない、という印象を強く持った。「いつまで日本に居られるかわからないので、どこまで実現できるかわかりませんけど」と、ちょっと困った顔をして見せてから、彼は最後にこう語った。


M:多分あの軍隊経験も関係あると思うんだけど、人生短いし、やれることは本当に限られてるんだって、切実に思うようになりました。訓練中に死んだ先輩もいたし、足使えなくなったり、片耳聞こえなくなるやつもいました。自殺未遂して精神病院に行ったやつもいた。なんでこんなところで、2年間っていう貴重な時間を無駄にしなきゃいけないんだって何度も思いました。でも、軍隊に来なければ、この時間の貴重さにも気がつかなかったはず。だから日本帰ったら、失った2年分、もっとやる。今回も東京来て7日間、ずーっとスケジュール詰めていて。ひとりだけの時間なんて1時間もないですよ。さすがに疲れました(笑)。ちょっと眠いです。

*1:※註1『Control』の事件:Big Seanのアルバム未収録曲『Control Ft.Kendrick Lamar & Jay Electronica』が発表されるやいなや、客演のKendrick Lamarの蹴ったヴァースが、ヒップホップ界の話題をさらっていった事件。コンプトン出身でありながらKing Of NewYork(Biggie Smallsの別名でもある)を名乗り、“I got love for you all but I'm trina murder you niggas”と、身内を含む人気ラッパーを名指し。現在、ヒップホップ界最高の実力と人気と勢いを誇るKendrick Lamarの挑発によって、有名無名を問わず、シーンの全てのラッパーがこのゲームボードに乗せられてしまった。アンサーを出したりツイッターで言及したり、ほとんどのラッパーがこの件に関してなんらかの反応を示している。かつての東西抗争とはまた異なり、成熟した「リアル」を提示するビーフとして、ヒップホップ史に刻まれると思われる。 (参考:http://ameblo.jp/clubcrunk/entry-11592470504.html

*2:※註2『HEYLAS』:WHITE JAMのSHIROSEによるコンピレーションアルバムからのプロモーション曲「HEYLAS/KEN THE 390 feat. GASHIMA,ISH-ONE,SHIROSE,TOC」のこと。非難することしか能がない、いわゆる「ヘイター」へのアンサーをテーマとすることで、“Jラップ”として批判を受けやすいメジャーと、日本語ラップアンダーグラウンドを接続する試み。youtubeを中心にプロモーションを行い、アカペラやインストゥルメンタル音源を無料配布。リミックスやビートジャックを積極的に推奨した。 (参考:http://matome.naver.jp/odai/2139168607225507901?

宮崎駿『風立ちぬ』

◇『トゥ・ザ・ワンダー』が物語の外から吹く風を浴び続けているのだとしたら、『風立ちぬ』は物語の内側に風を起こし、外に向かって吹いていく。

 動きの演出を完全にコントロールできるように思われがちなアニメーションは、しかしそこに風そのものを描くことはできない。「誰が風を見たでしょう、僕もあなたも見やしない、けれど木の葉を震わせて、風は通り抜けていく」。捉えることのできない風は、だから景色の変化を丁寧に追うことでしか感覚できない。僕達が見ることができるのは、風の軌跡だけである。

 これはたしかに、飛行機に夢を託す男の物語だということは間違いない。が、しかしもっと丁寧に言い直すならば、風を見る欲望に取り憑かれた男の物語なのである。二郎の飛行機は、強力なエンジンや頑丈な機体によって自らを駆動していくのではなく、風を全身に受けて軽やかに舞う。彼の飛行機は、つまり風を映し出す鏡なのである。

 どこへ向かって吹くのかわからない風に乗れば、想像のつかない景色だって観ることもできるだろう。もちろん、想像を絶する景色も同様に。しかしパイロットではない二郎は、風に乗ることなく、ただ風を見つめつづける。二郎にとっての現実とは、風を眺める時間のなかにしか存在しない。だから、飛行機が殺戮の道具となることを憂いながらも、その開発に勤しむし、病床に伏せる妻の傍らで、ついタバコに火を点けてしまう。近眼持ちの二郎は、「いまここ」の外側にしか描き得ない風だけを見つめている。

 風を眺めるような視線に晒される妻・菜穂子は、だから夫の記憶のなかに美しい姿のまま留まることを望むし、実際に浮世を離れた存在となることで、二郎にとっての現実のなかに、その姿をより鮮明に顕すようになったかもしれない。だからこれは、本当に残酷な話だ。

◇風が吹いているならば、生きなければならない。それは同時に、どこまでも外側でありつづける風に、どこまでも戦慄きつづけることを意味する。全くその通りだが、それを字義通り風への戦慄としなければならなかったのが、二郎の幸福であり不幸であると思う。美しい以外の菜穂子の側面にこそ、風と同じ外部を感じ取ることはできないだろうか。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20130915より抜粋。

◇テレンス・マリック『トゥ・ザ・ワンダー』

◇音楽とモノローグのうえを、映像と音が次々と切り替わる映画だった。多分、この映画の音声だけを切り取っても、全然いける。

 ところで、画面に映っているもののほとんどは動いている。もちろんこれは当然と言えば当然だけれど、『トゥ・ザ・ワンダー』に目立つのは、ひとつのシーンのなかに、異なった要因で動くものがいくつも平等に配置され続ける様子である。目まぐるしく移動する電車の外の風景と永遠にはしゃいでそうな車内の男女、ダンスに揺れるスカートと窓から入り込んだ風にゆれるカーテン、主要人物たちの会話と馬や牛やスクーターの発する音、そして、ストーリーのうえで何が起きようと、ほぼ全篇を通して吹き続ける風。人物やストーリー上の運動が連鎖して画面全体の動き=映像を決定するというよりも、それらの運動とは全く関係のない動きが常に目立つように映っている。このとき唐突に思い出したのは、前作『ツリー・オブ・ライフ』のラスト近くのシーンだった。http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20111016

 ひとりの男の記憶のなかに生命の起源までを含みこんで語られる『ツリー・オブ・ライフ』は、記憶のなかの登場人物を同一の映像のなかに収めて終わる。全てが男の物語になるべく、恣意性そのものをあからさまに提示して終わるわけだが、このすさまじく単線的な『ツリー・オブ・ライフ』と、『トゥ・ザ・ワンダー』のすさまじい錯綜は、ほとんど対になっているように思える。

 さて、今作のお話上のテーマに「愛」というのがあるけれど、仮にいま、ものすごくシンプルで、ほとんど馬鹿のような回答を用意するとしたら、ふたつ以上の異なるものをくっつけて考えるときに必要な、思索における接着剤のようなもの、と言えるかもしれない。途中、オルガ・キュリレンコが背中から倒れようとするところを、ベン・アフレックが何度も支えるっていう、むちゃくちゃに幸福なシーンがあるけれど、まさにあのふたりの動きの連なりが、例えば男女の間におけるひとつの「愛」の形だと観ることができる。だから反対に、子を失ったレイチェル・マクアダムズがベンアフレックをも失ったときに流れる映像は、全てが静止した家のなかの様子だったりする。全てが孤立して、何かの拍子に動き出す気配が全くない。

 物語的には、このレイチェル・マクアダムズが全てが静止した家に閉じ込められる恐ろしさがものすごく大切で、つまりこれをどのように超克すべきかっていうところがキーになっている。結局、オルガ・キュリレンコも子を失っているし、終わりにはベン・アフレックをも失うという意味で同じ状況に置かれるわけだが、しかし彼女が辿り着いたのは全く正反対に、幸福に満ちている。彼女のモノローグはなんと「ありがとう」で締めくくられたりするのだけれど、このとき映像は、ほとんど一枚の見事な写真のようなものが何度か連続する。風景の一瞬を切り取ったかのようなこのショットは、何かが動き出しそうな気配を常に孕み、いや目をこらせば木々の細かく震える様が見えているかもしれないし、被写体の奥から差し込むまばゆい光は常に動いているとも言える。つまり、全てが静止した家においては時間が停滞し続けるが、この見事な風景には一瞬が描かれ、常に既にどこまでも開かれている。「愛は永遠だ」というときの永遠とは、時間の停滞のことを意味しない。一瞬とイコールで結ばれる「永遠」のことである。

◇一寸先が闇かもわからない不安のなかで、でもそれでも未知なるものへ。っていうのが、そのまんま直球でタイトルになってるんだと思う。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20130909より抜粋。

2012年日本語ラップベスト

◇2012年は終わりの年らしい、というネタでPUNPEEとBACHLOGICが相見えてから3年。いまや彼らはシーンを両側から引っ張る二大プロデューサーになっているわけだけれど、さて、それはそうと今年は日本語ラップの大変な当たり年でもあった。そういえば2012年終末説ってのは、世界が終わることではなくて、ひとつのサイクルが巡るって解釈もあるらしい。
 今年も2Dcolvicsさんにて「2012BEST ALBUMs In 日本語ラップ」の企画に参加させていただいたので、そのことについて手短に書いていく。ランキングはご覧の通り→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52157479.html
 まず、10位に選んだSALU『IN MY SHOES』。日本語ラップが到達したひとつの頂点として、クラッシックのひとつに数えられるのは間違いない。日本語の発話を細かく分割して自由自在にコントロールできるSALUは、精巧なオブジェとしてのラップを練り上げると同時に、リスナーとプレイヤーの間にしっかりと線を引く。両者は互いに干渉し合うことなく、完全に分断された場所からひとつの音楽に向かい合っており、その意味において、このアルバムにおけるSALUのラップはサイファーを囲むラッパーのそれではなく、コンサートホールの中央から聴衆に向けて朗々と歌い上げるヴォーカリストのそれだと思う。このときリスナーが捉えようとしているのは、SALUのラップそのものであり、ラップするSALUではない。ちなみにメモっておくけれど、ラップする身体を捉えるのか、ラップという歌を聴き取るのかについては、結構深く掘っていく価値のある問題だと思う。
 これとはまた別の角度から、リスナーとプレイヤーを区分しているのが3位のMoe and ghosts『幽霊たち』。『アラザル8』でも触れたけれど、Moeのラップもまた、彼女自身の身体の在処をどこまでもぼやかす。けれど、どうもその身体は「ないんだけれど、あるような気がする」もしくは「多分あるんだけれど、捉えられない」といった類のものであり、最終的には、その身体の不明瞭さそのものに焦点が合わせられている。例えば写真に写り込んでしまったノイズが人の顔に見えたりするように、レコードの上にしか存在しない「身体」というものがあり、そういったものに僕らは幽霊の身体を見る。ラップは、多かれ少なかれ日常口語に漸近するけれど、ひたすら歌声のまま、日常生活の口語行為に全く近づかずにラップするMoeの姿は、まさに「幽霊」そのものだろう。とはいえ、個人的な好みを言えば、隠しトラックで人間(a.k.a.生活者)としてのラップを披露するMoeもすごく魅力的。
 WATTER『WATTER』。完成度はそんなに高くないと思うけれど、変なラッパーと変なトラックをコーディネイトする能力に、ちょっとした凄みを感じて9位にしてみた。なんとなくPUNPEE周りは、MACKA-CHINみたいな変なセンスを纏っていて、いつもツボってしまう。で、それを見事にポップな方向に昇華すると、7位のLBとOtowa『インターネット ラブ』になる。リリックもライミングもキャラクター(声)も最高レベルだし、音楽産業を取り巻く各方面の状況も見据えて乗りこなす様子は、日本語ラップ界の大秀才といった気配。このアルバムを一位にしても、結構面白いランキングが作れる気がする。
 7位のERA『JEWELS』は、多分今年一番聴いた。m-floのタカハシタク的なソリッドでカラフルなサウンドの「きらびやか」もあるけれど、ERAは、例えば終電車の床の上に落ちたスパンコールの鱗だとか、オール明けの街でカラスがつつくゴミ袋から割れたガラスが反射しているだとか、そういう闖入する「きらびやか」を丁寧に描写する。むちゃくちゃ好き。で、4位のECD『DON'T WORRY BE DADDY』は、生活に闖入する「何か」を限りなく広げることで、あるべき「生活」のイメージといったものをどんどん取り壊して行ってしまう。たびたび挿入される目覚まし時計の音が、段々と目覚まし時計の音に聞こえなくなってくる様子が象徴的だけれど、生活というゲシュタルトが崩壊しても人間で居られるのは、夢をみることができるからなんじゃないか、なんてことを考えたりした。
 similab関連。5位のQN『New Country』と、6位のOMSB『Mr. "All Bad" Jordan』では、どちらを高順位にするか本当に迷った。結論から言えば、ラップのテクニックと今年のQNの頑張り具合を見てこういう風にしてみた。次回作やら今後の展開の期待から言うと、OMSBの方が上になる、ということは付け加えておく。対比させながら聴くと、QNはトラック選びやラップのこだわり方を聴くに、すごく繊細なところまで気をまわしていて、大味なところがなく上品にまとまっているけど、それがこじんまりとした印象も与える。OMSBは無骨さを隠さないラップと大胆なトラックメイクで、ちょっと有無を言わさない迫力。同じグループに居なくてもいいけど、いっしょに仕事する機会をどんどん増やして欲しいとは思う。

◇休憩。「2012 BEST on YouTube In 日本語ラップ」も選ばせていただいたので、よろしければそちらもぜひ→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52157471.html

◇上位2つは、心情的にはどちらも1位。両者ともにラッパーとしての魅力が溢れてる。

◇2位、MOMENT『UP DOWN』。


昨年リリースされたミックステープ『Joon Is Not My Name』に収録された『I LOVE HANDAI』は、まあ金もないけどそれなりに楽しけりゃいいじゃんね的な、一見イマドキの大学生っぽいとも言える雰囲気をまとっていた。韓国からの留学生という立場から見た日本の不思議なところが、そのまま日本の学生の“社会への疑問”といった視線とうまくくっついて、大学というアイデンティティを保留にしておける空間を描写していた。しかし、よくよくリリックに耳を澄ませば、ゆるい空間においてすら、他者としての自分への意識が常に働いている。彼の「とりあえず飲もう!」という声は、ぬるま湯のなか、いつまでも自他の境を曖昧にできる無邪気なそれとは異なり、パーティだけがそうした問題を取り払ってくれるということへの叫びであったりする。つまり、momentにはこのときから、大学生活の外側がはっきりと見えていたのだとも言えるだろう。
 今回のミニアルバムは、彼の入隊直前までレコーディングされたもので、外人ラッパーを自称する彼のドキュメントとしても非常に貴重なものになっている。全体を通して前に出ているのは、彼の「迷い」であるが、それは言い換えれば「揺らぎ」でもある。言語、学生生活と兵役、日本社会における外人、といった具合に、テーマのなかに複雑に絡まり合った二つ以上の事情を用意し、韻を踏みしめながらリリックを前に進めていく。シンプルな押韻にも関わらず豊かにグルーヴするのは、3カ国語を咀嚼する彼の身体に依るものであり、複数の事情の間で揺れる彼の苦悩に依るものでもある。そのいくつもの側面の、いずれをも否定することなく、そして引き裂かれることのないまま、momentは“individual”をラップによって提示する。

2年間の兵役を終えて阪大に戻った彼に、軍人としての規律生活について聴いてみなければならない。勉強しとかないと。

◇1位はKOHH『YELLOW T△PE』。


ちょっとだるそうに、大好きなギャルやファッションについて延々歌うのがすごくいいと思って、早速ミックステープを購入してみたのだけれど、予想外というか、ちょっと感動してしまった。“自分の興味あることだけ歌う”という姿勢は、ある決意に貫かれていた、という事実を目の当たりにしてしまったのである。
 13曲目『FAMILY』は、KOHHの家族をテーマに、2歳の頃に亡くなった父、向精神薬と大麻を手放せなくなった母、弟の流産と、その後の妊娠で無事生まれてきた10個下の弟(LIL KOHH)のこと等が淡々と歌われるのだが、彼はそれを「普通の家族さ」「君と違うだけ」とさらっと言い切っている。自らの境遇に対するこのような距離感は、僕に古谷実の作品を思い起こさせた。事実、3曲目『I NEED HER(REMIX)』の「おちんろんとおまんろんがンパンパ」というリリックは『僕といっしょ』からの引用だったりもするのだが、さて、その『僕といっしょ』の主人公すぐ起とイトキンは、「爆笑」という手段を身につけることによって、圧倒的な暴力に晒されつづける“人生”をサバイブしていたことを思い出してみる。この「爆笑」にあたるものが、KOHHにとっての「ラップ」であるというのは間違いないだろう。SALU『STAND HARD』が、KOHHの手にかかれば「歩いてるだけでやたら目につくカワイイコ」になってしまうように、いかなる状況でも彼はギャルへのエロい視線を送らずにはいられない。暴力に真っ向から対峙するのではなく、その隙間を縫うように駆け抜けること。それが、KOHHの示すサバイバルである。

 ところで、僕には主人公であるすぐ起の姿が、KOHHと重なって見えているのだが、どうだろう。少なくとも、彼はすぐ起&いく夫兄弟を、どう読んだのだろうか。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20121228より抜粋