web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前10時半。歯医者に遅れる。

◇雨が微妙に降っていた。余裕をもって車で歯医者に向かうが、そろそろ着くという頃に、妻から忘れ物を指摘する連絡があった。

◇歯医者の帰り、私たちは車を停めた商業施設で買い物をした。考えたら息子と二人きりの買い物は久しぶりかもしれない。妹と対照的に、欲しいものを全然ねだらない息子だが、今日はダイソーで息子のほしいものを買った。欲しいものないの?と私が聞くと、一度「ない」と即答し、しばらくしてから「やっぱり…」と言い出した。文房具コーナーの前だった。しばらく罫の間隔や枚数などを吟味してから、一冊の大学ノートを選ぶ。息子は「学校で使うものじゃないんだけど」とだけ話し、コクヨのキャンパスノートを買い物かごに入れた。

◇家に帰ると、娘が最近開発したレシピで、妻と娘がマフィンを焼いていた。
 母の日に、ブラウニーのあまり材料で娘とバナナマフィンを作ったのである。これを気に入った娘がレシピを忘れたくないと言い、ワードで工程をまとめてプリントアウトした。そのレシピは、娘がキッチンの扉にセロテープで貼り付けていた。今日はそれを見ながら、少しアレンジを加えて焼いたようだった。フィナンシェの口直しつきの、少し洒落た土曜の昼食となった。

◇先日脱皮をしたザリガニが、夜中にバケツをひっかく。冬を超え、梅雨を迎え、いよいよ夏に向けてウォーミングアップをしている。

上島竜兵の訃報に驚き、自ら命を絶ったと知ってとまどい、次に「もしかしたらそうなのかもなあ」と納得しかけたところで、やっぱりやめた。私は、上島竜兵のことをあまり知りたくないと思った。

◇マスメディア上で自死のニュースを無配慮に垂れ流すことの危険性は、これまで何度も指摘されてきた。指摘されているにも関わらず繰り返されるのは、ひとつにはメディアの不勉強があり、もうひとつにはやはり耳目を集めてしまうという事情もあるのかもしれない。
 だがしかし、今回はなんとなく、割と早めに過剰な報道は控える方向に舵を切った印象がある。早々と暴走し始めたテレビ番組があったことや、その生放送中に出演者が問題点を明確に指摘した、ということも影響したのかわからない。けれど自分には、やっぱり本質的に、テレビに映っていないときの上島竜兵を知りたくない、という人が結構いるんじゃないか、という気がしてくる。

上島竜兵への目線というのは、大きく変化してきたと思う。
 「お茶の間」と呼ばれたマスメディアの受け手たちはかつて、テレビのなかで起きたことを「本当のこと」だと信じていた。もちろん萩本欽一が素人にテレビカメラを向けてしまったことも要因のひとつではあると思うけれど、それ以前から、トニー谷の事件を挙げるまでもなく、単純に視聴者が未成熟だった、という方がわかりやすい。笑芸人というのは、素のままでテレビという舞台に上がり、「リアルガチ」のリアクションを素のままで繰り広げているように誤解されてきた。だからダチョウ倶楽部出川哲郎という、話芸よりも(ある種の)体技に磨きをかけてきた笑芸人たちは、お茶の間から「芸がない」と思われ、二流三流の烙印を押されてきた。
 こうした笑芸人たちに対して、「リアクション芸人」という再評価の兆しが見え始めたのはいつからだったか。マスメディアの受け手が「お茶の間」から性別年齢別の「視聴者層」に移行していったのと並行して、明石家さんまは『恋のから騒ぎ』で「出川は一流や」と言い放ち、森達也は『ドキュメンタリーは嘘をつく』と明言した。上島竜兵を芸のない芸人だと思い込んでいた受け手たちも、こういった見方が広まるにつれ、一度はとまどい、やがて「もしかしたらそうなのかもなあ」と納得していったのだろう。
 ただ、テレビのなかの出来事は「テレビというルールのなかで起きていること」には違いないが、だからといって事実と全く異なるわけではない。あらゆる空間には小さな事実や小さな嘘が混在していて、そこにカメラが入ると、映す角度によってどこかの部分が大きく見える可能性がある、ということである。ドキュメンタリーは「嘘である」わけではなく、「嘘をつく」に留まる。カメラの前の出来事は、全くの「本当」ではないのと同じ程度には、全くの「嘘」でもない。
 上島竜兵にどのような嘘があったかは知らない。「素」の上島竜兵がどのような人であるかは知りたくない。南部虎弾が弔意を表すとき、とまどいを率直に述べるときは気丈に振舞っていたのに、ネタのときに決壊してしまうのはなぜか。上島竜兵がカメラの前に提示した「リアル」の方にこそ、「本当」はあるべきではないのか。
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午後3時半。雨を見る。

◇結局、雪にはならなかったんじゃないか。

◇あまりにも久々過ぎて、このブログの表記ルールというか、定型を忘れてしまった。「◇」を打ってから書き始め、一息ついたらまた「◇」を打つ、だった。

◇2020年に始まったコロナ禍はいまだ継続中で、これまでと同じようには季節の移ろいを感じにくくなっているのだが、それでも昨年中はいくつか文章を書いていて、そういうのを読み返すと、自分の気持ちやテンション、感情の起伏の変化が見て取れる。その文章が書かれたときから今までの距離を見て、これはさすがにある程度時間が経過しているな、と思ったりする。考えや心情が変わったとかではなく、単純に時間の経過がわかる、といったくらいの話。文章を書いて、時間に目印をつけているような気分。

◇小学生の頃、全校集会と呼んだか、1年生から6年生までが同じタイミングで校庭に集まる機会というのが定期的にあった。背の順に整列して校長先生の話を聞いたりして、また教室に戻るのだが、私は当時、多分階段をぐるぐる登っているときだったと思うのだけれども、なんだか自分がどこからどこまでなのかわからなくなって、少し混乱することがあった。前の人も、その前の人も、その前の前の人も、みなが階段を登っていて、後ろの人も、その後ろの人も、同じように階段を登っている。前の人と後ろの人に挟まれて、私はいま足を動かして階段を登っているけれど、これ、足を止めることできるんだろうか。自分の意志で、自分の足を止めることができるんだろうか。なんだか、自分の運動が自分にはコントロールできないような感覚を覚えた。なぜそんな技を編み出したのかわからないが、そんなとき、私は自分の手のひらを見つめ、ああこれが自分かと、ぐっと自分の意識をはっきりさせるのだった。
 文章を書く行為は、ちょっとそんなことを思い出させる。

◇最近、学習机ではなく、ダイニングテーブルで子供の勉強を見ている。対面しているので、息子が書く漢字は上下さかさまである。命という字は、上下逆にするとけっこうウルトラマンの顔に似ている。

前回も同じようなことを書いたけれども、2019年には川崎市でヘイト罰則条例が可決、伊藤詩織さんの民事裁判で勝訴、といった出来事があり、最悪がついに底を打つ音を聞いた気がした。実は2020年も同様で、大坂なおみ選手がBLMを掲げて全米オープンで二度目の優勝を果たし、大阪市廃止を巡る投票では、維新が公明党を抱き込んでも否決された。相変わらず最悪だが、最悪は横ばい状態に入ったと思う。あとはいつそこから抜け出るかが問題で、その機運は感じつつも、他国の大統領の蛮行に追従する日本の人々を見てため息をつく。彼らの文章に驚くほど誤字脱字が多いのは、彼らは自分が書いたものを読み返せないからだろう。ああはなるまい。ああはなりたくないので、私は自分の文章を読み返そうと思うし、読み返せるような文章を書こうと思う。恥ずかしい過ちも浅はかな考えもあるだろうけれども、何が悪いんだと開き直らず、悪いものは悪いと言えるように、しっかり読み返すことに意味がある文章を書いていこうと思う。

◇文章がなんとなくダウナーなのは、右肩が痛いからだ。自動車を買って、電車に全く乗らなくなり、最寄り駅までも歩かなくなった結果、運動不足はいよいよ決定的になっていると思う。

◇年が明けてしまったけれども、今年もありがたいことに、MiseColvicsさんのところでヒップホップベストをチョイスさせてもらった。ご笑覧ください。
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◇今回はどんなランキングを作ろうかと思って結構考えてしまったんだけれども、少なくとも「2020年に誰がいたか」ということを、ここ10年くらいのスパンで考えてみると、間違いなく「Moment joonがいた」という年になると思う。2019年に出した『Immigration EP』の時点でそれは確定だったけれども、今作『Passport & Garcon』はさらに1枚のアルバム作品としての完成度も高めていた。ヒップホップってどんなフォームの表現なの?という人がいたら、とりあえずこれを一枚手渡せばいい。日本語ラップはフェイクなのかリアルなのかという論争さえ懐かしく感じられるようになってしまった原因は、日本語のラップ表現自体の技術的浸透、日本にはもはや一億総中流的「普通」などどこにもない点、アメリカのヒップホップのフェイクくささが露呈したことなど、枚挙に暇がないけれど、そういう時代にあってなおリアルと言い切れる作品が『Passport & Garcon』だった。
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 このまま『Passport & Garcon』を1位においても十分語れることはあるんだろうけれども、私が今年、ふと気づけば聞いていたのがBLYY『Between man and time crYstaL poetrY is in motion.』だった。「2020年に誰がいたか」という問いをもう一度、今度は別の角度から考えてみると、BLYYになる。2020年は、コロナ禍やら日本社会の愚かさやらアメリカの惨状やらを眺めた年ではあるが、角度を変えれば、1995年からたった25年しか経過していない年なのである。おそらくBLYYを語るときに90年代ヒップホップというのはひとつのキーワードではあるけれども、90年代ヒップホップは潰えたわけではなく、完成度が上がり過ぎて袋小路に入ったわけでもなく、普通に今もずっと流れているものであることを知った。間違いなく2020年でなければ聴けない音楽になっている。批評家の西田博至が『アウトレイジビヨンド』を、羊羹のようにみっちりと詰まった映画だと評したのを覚えているけれど、ぶっきらぼうに見えて、ひとつひとつの音や言葉がみっちりと緊密に並ぶ『Between man and time crYstaL poetrY is in motion.』にもそれが当てはまる。よく聞くと変なことを言っていたり、変な音が響いていたりして、濃いだけでなく、極めて雄弁な作品でもある。緊張感が緊密に続き、そのどれもが最後まで欠けることなくぶつっと終わりを迎える、大傑作だと思う。
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◇BLYYを1位に置いて並べてみると、90年代に投げかけられた様々な問題が、さまざまなきっかけを得て、再び2020年に表に噴き上がっているようにも見えてくる。ZOOM GALSのビデオに宮台真司が登場したということもそうだけれども、おそらくAWICHは安室奈美恵の孫だし(言うまでもなく安室奈美恵の娘はAI)、NENEはコギャルに扮してNIPPSと特撮に出る。ご本人は怒るかもしれないけれど、フェイクというかコンセプト先行だった井上三太をリアルにしていった先には『少年インザフッド』がある。これは90年代が、懐古とかリバイバルの対象のように見せかけて、実は思いっきり「いま現在の問題」のままでいる、ということでもある。当時はシニカルに笑いながら辛いとつぶやいていたものが、今はシリアスに疲れ切った表情で辛いとつぶやくようになった。そんな感じである。

◇WEBというくそつまらない場では、ネタ的消費などいまやどこにもなく、最近のタランティーノ映画が史実と異なることに怒り出す人も現れる始末。ハイコンテクストどころか、140字程度のコンテクストさえ読みこなせず、というかテクストを二度読むことなどなく、あらゆるものがベタと勘違いに塗れる。
 そんな状況を横目に軽やかさを持って乗りこなしたいと思う人々がすがりつくところに、もしかしたら菊地成孔がいるかもしれないとも思う。彼のトランプ支持自体は逆張りでないにしても、トランプ支持をあえてWEB上で展開する行為は、きっと逆張りだと思う。私のような俗物的な人間は、まあWEBなんてくそつまらないものなので、そういうつまらない場ではベタベタな正論でも言っておけばいいと思うんだけれども、そしてそれこそが95年を曲がりなりにも知っている(95年に精通があったと思う)私の処世術なのだけれども、おそらくそれを引き受けるのは、ある種の人々にとっては極めて耐え難いものなのだと思う。それはまあ、そういうもんだろう。

◇あえてひとつ菊地成孔の態度への疑問を挙げるとすれば、なぜWEBに書くのか、というところ。印刷のようなものではなく、ぱっと消える言葉というところに魅力を感じている可能性はあるけれども、だとしたら彼にはラジオがあるじゃないか、と。いや、あのトランプ支持を表明したあの記事は、菊地成孔がラジオ番組を終了した後のものだったっけ? 調べりゃすぐわかるんだろうけど。
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 記事が公開されてから随分経って「炎上」している状況だが、蛇足ながら私見を述べておくと、正直いつもの切れ味と混沌があまり感じられず、そこに火の手がつけいる余地があったということなんだと思う。ただ、あの記事はトランプがここまで大騒ぎする前に書かれたものであり、それはつまり、まだトランプが何も(戦争も)起こしていない(ように見える)状態で読まれるべきテキストだった。菊地成孔氏が考えを変えたかどうかということではなく、テキストが読まれるべきタイミングが全然違う。だからつまり、いまさらの「炎上」というのは間違いなく後出しジャンケンであり、あのトランプの馬鹿騒ぎについてあらためて言及するのを待ってからでないとフェアではない。まあどんなロジックやどんなレトリックを用いても、人はそんなに対話を求めてないのでどうせ結果は同じ、だとは思うけれど。

◇毎年、勝手にやっているBEST actというのも、2020年はこんな感じになりました。
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dodoはラップもトラックも素晴らしいけれど、実はビデオの名手で、『kill more it』に奇跡的な瞬間が写っているのは、おそらく偶然じゃない。画角も何もかなり計算して撮ったであろう『nambu』のビデオでも、同じものが写っているからだ。ヒップホップアーティストは、レコードジャケットかビデオといったビジュアル表現なくしては成り立たないと思っているのだけれども、dodoがその説を証明してくれるような気がする。

◇まあともかく、2020年は年末にアラザル13を出すことができてよかった。

午前8時。ザリガニを逃がす。

◇もういやだ、と妻が言った。

◇昨日は今年初めてのザリガニの脱走劇があった。
 「ザリガニって7匹?」という声で目覚めてバケツの前にいくと、たしかに片腕のやつがいない。食べられてしまった説も疑うが、残骸はまったく見当たらない。いくらなんでも一晩でここまで証拠が消えることは考えにくいので、脱走したのだと推測した。
 脱走経路はおそらくエアレーション用のホース。片腕で懸命にホースをたどっていく姿を想像し、感心しながら家を出て自転車置場に向かうと、妻が窓ごしに怯えた声を出す。洗濯物のなかから片腕のザリガニが出てきたと言って、私のTシャルにくるまれたザリガニを見せる。Tシャツとともに洗濯されてしまったのか、それとも洗濯後にちょんと乗ったのかわからないけれど、元気な様子でひと安心。脱走への執念に敬意を表して、近所の用水路まで運んでいった。

◇翌日、明らかに妻の怒った声で目を覚ます。バケツのザリガニが6匹になっているらしい。
 もう洗濯物のなかから出てくるのは嫌だという。見るとザリガニの殻があり、1匹は脱皮をしたようだった。よく見るともう1匹分の尾があり、おそらくそれは食べられてしまったやつなのだろう。脱走ではないから大丈夫だ、と話すが、妻は共食いなどもいやだということで、体の小さい1匹だけ残して、雨のなか5匹を放してきた。

◇帰宅すると娘がバケツを覗き込み、ザリガニはどこへ行ったのかと言う。経緯を話すと少し残念そうな声を出すが、兄が「でも1匹いるからいいよね?」と妹を諭す。

◇用水路が流れる近所の公園で、美しいトンボを捕まえた。
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 FBに上げるとハグロトンボだという指摘を受け、ググってみると数年前の記事に当たった。記事には「都内では絶滅危惧種に指定」とあり、また「多摩川流域に生息している」という記載も発見した。
 2日後、高幡不動駅から自宅まで、程久保川沿いを自転車で走っていると、ハグロトンボを4〜5匹発見した。ハグロトンボを知ったことで、新しい目を獲得した気分だ。

◇勤務先の社長にdodoの新しいビデオをおすすめしたら、思った以上にどはまりしていた。
 社長は立川生まれの多摩区育ちで、南武線に対する愛憎入り交じる思いがあることは前々から聞いていた。南武線はおそらく彼の地元の具体的なイメージであり、だからdodo『nambu』を見た直後、ヒップホップのことはよくわからないと話す彼に、迷わずリンクを送りつけたのだった。

◇dodo『nambu』。
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◇SCARSしかりBADHOPしかり、磯部涼『ルポ川崎』で語られている通り、川崎は日本のヒップホップにおいて重要な意味を持つ土地である。
 『ルポ川崎』の続編とも言えるインタビューに登場したdodoは、川崎中原区のラッパーとして、北部と南部の中間で揺れ動く川崎を体現しているように見えた。が、しかしいまこのビデオを見て思うのは、そのどちらでもない街が描写されているということだった。
 いわゆる川崎サウスサイドとは京浜急行の川崎であり、ノーザンソウルは東急田園都市線であり、北部的なイメージを託された武蔵小杉は東急東横線である。川崎の北部というのは東急が作っているそれであり、つまり磯部涼は武蔵小杉という土地の歪みにdodoを重ねることになるのだが、今回のビデオではっきりと、dodoは武蔵中原を立ち上げる。二ヶ領用水、中原街道富士通、そして南武線。川崎には、京急でも東急でもない、南武線も走っているのである。

南武線は、多摩川である。

俺は旅立つよ この街から
もう興味は無い ゲームの勝ち方
ありがと南武線 川崎立川
この街を出る この街を出る 
あの日の景色 君との歴史 全てがレシピ
yea 憶えてるいつも あの日の傷と 
この街の水を

 南武線は、川崎(=横浜じゃない方の神奈川)と多摩(=23区じゃない方の東京)を結ぶ路線で、かつては多摩川の砂利を運搬し、現在はメーカーやIT企業が立ち並ぶ(参照:SNSで話題「トヨタの南武線沿線の広告」が生まれた理由と、目を留めてシェアしてもらうための工夫 | AdGang)。サグにせよハイソにせよ、あるいは武蔵小杉駅周りの再開発のイメージにせよ、近年の川崎は非常に活気に満ちていて、ヘイトスピーチへの罰則条例を可決させたダイバーシティの街というイメージさえ兼ね備える。
 ただ、dodoの打ち出した街のイメージはもうちょっと広く、そして時間的に長い。彼の地元武蔵中原はもちろんだが、多摩川を超えて府中から谷保までも射程に含んでいる。言ってみればそれはつげ義春の稲田堤・調布、忌野清志郎の谷保・国立のことである。
 川というのはつまり溝であり、そこに針を落とせば音声をプレイできる。dodoはそのことをよく知っていて、街を流れる水の記憶を再生する。

◇近年、イサーンの音楽シーンをディグりまくることでおなじみsoi48や空族、STILL ICHIMIYAの人たちが、メコン川流域のカルチャーに着目してOne Mekongと呼んでいるけれども、その感じでこの多摩川流域を見てみてもなかなか通用する。多摩川の橋脚とか土手沿いとかのタグ、立川と川崎で見かけるのが多い気がする。移動手段多分原チャリとかなんだろう。
www.youtube.com

午前6時。二度寝のクリスマス。

◇サンタクロースからの贈り物に沸く。時計を見たら6時だった。就寝してからあまり時間が経っていない。

◇息子にはニンテンドースイッチ。初期設定やらを手伝ったりする。息子は最近ずっとマインクラフトの話をしていた。学校でマインクラフトを持っている子たちの話に入り、そこで仕入れた知識を私に開陳するのである。今朝の喜びは大きかっただろうが、その分ちょっとしたことがすぐがっかりに変わる恐れもある。コントローラーをつけたはものの、外し方がよくわからない息子は、壊してしまったのではないかとずっと心配していた。しかしそれにしても、マインクラフトを持っている友達の輪のなかで、これまで息子はどんな話をしていたのだろうか。
 娘には生まれてウーモ。ウーモは卵に入ったぬいぐるみで、温めているうちに自ら殻をやぶって出てくる。息子のスイッチの初期設定が終わり、私は再び少し寝たのだが、そのとき娘は大事そうに卵を温めていた。ほどなくして、今度は妻から起こされる。生まれてウーモが生まれない、と。娘以上に妻ががっかりしていて、私は娘に、おかあさんがっかりしているから、大丈夫だよって言ってあげてと伝えておく。娘は妻の隣に行き、大丈夫だからね、と肩をさすってあげていた。

◇ウーモは通常20分程度、長くて40分くらいで孵化するという。かれこれ2時間くらい、卵は歌って光るだけである。「ウーモ 生まれない」などと検索しながら情報を集めると、ウーモは底の部分を温めながらよく撫でてあげるといいらしい。ストーブの前において、光る卵をさすり続けた。会社には生まれてウーモが生まれないので遅れますと報告した。ふと思ったのだが「温めながらよく撫でてあげるといい」という情報を掲載していた個人ブログには、同時に「ウーモは無理やり殻を破ろうとすると死んでしまいます」とも書いてあった。「温めながらよく撫でてあげるといい」というのが、どこまでどういう意味合いで必要なことなのか、ちょっとわからなくなってしまった。

◇年末はここ数年、ずっと忙しい。

◇今回もMiseColvicsさんのところで、日本のヒップホップのベストを選出させていただいた。大変ありがたい限り。2019年ベストアルバム、2019年ベストアクト、2015-2019年ベストアルバムの3つになるので、よろしければご笑覧ください。

◇2019年は、日本社会が落ちるところまで落ちた年だ。三歩進んで二歩下がるどころか、世の中は悪化の一途をたどった。賢くなろうとする意志が徹底的にコケにされ、正しさを極力考えないことでしか生きられない世の中になっていく。嫌気がさして無力感に囚われることは、結局そういうやつらの仲間入りをしてしまうことになる。無力感に陥らないように、毎日粛々と、より良く、より賢くなろうと生きるしかない。
 ただ同時に、今年の最後にはどこまでも励まされるニュースが飛び込んできた。川崎市のヘイト罰則条例が全会一致で可決し、そのすぐあとには伊藤詩織氏の主張がほぼ認められる形で東京地裁の勝訴判決が出た。外国人、女性差別に関わる人だけでなく、日常的に暴力に晒され、存在を否定されつづける人々にとって、これほど勇気づけられることがあるだろうか。川崎市議会や東京地裁は、人間が生活を送るうえで当然のことをしたに過ぎない。しかし、自分より弱い人間を見つけて殺すことでしかーーつまり差別化によってしか自分の存在を担保できない人間ばかりの世の中で、あらゆる人を人間と認定してもらえることがどれほど心強いことか。

◇社会が馬鹿になろうと関係ない、俺は俺で賢くなる。そういう態度を取りたくなることは心情的にはわかる。しかしそれでは結局、社会に殺されてしまう状況は変えられないだろう。社会全体で賢くなることが、結果的に個人を、自分の身を、相手の身を、あらゆる人間の身を、守ることになるのだと思う。

◇2019年は、さまざまな最悪が底を打ち、潮目になる年であってほしいと思っている。そんなわけでの2019年ベスト選出である。2019年ベストアルバムの1位はMOMENT JOON『Immigration EP』。2015-2019年ベストアルバムの10位にもこの作品を上げさせていただき、1位にはECD『THREE WISE MONKEY』を入れた。逆にするか迷ったが、我々はやはり、ポストECDの時代を生きている。MOMENTからECDまでの間が、この5年間であるのだと、ひとまずは考えてみたかった。
blog.livedoor.jp
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 ところで、記憶違いだったら申し訳ないが、たしか2006年か2007年頃だったと思う。あるラジオ番組である学者さんにメールで質問をしたことがあった。ネット上の匿名掲示板などで朝鮮韓国籍の人々への差別表現が垂れ流しになっている状況だが、現実的な暴力に発展する可能性はないですか?と。回答は楽観論で、現実社会でそんなことを言っても相手にされないから大丈夫だろう、というものだった。学者さん云々は置いておくとして、その回答はそれほど驚くようなものではなかった。当時はみな、大体そんな程度の認識だったからだ。しかし直後、在特会が出てくる。現実社会では差別発言が当たり前になってくる。そのうちにヘイトスピーチという概念が出てきて、先日の川崎の条例に結びつく。しかし、あれから10年以上が経過しているのである。日本社会はこの10年、差別に荷担しつづけてきたとしか言えないんじゃないか。
 今年のベストアルバム1位に選出したMOMENT JOON『Immigration EP』は、精確に言えば2018年12月20日発売のアルバムである。私はーーあってはならないことだがーー、このアルバムの存在を今年1月に入ってから知った。ルール的に2019年ベストに入れるのははばかられたが、しかし配信開始は2019年5月だったということで、ちょっとずるだが、強引に入れてしまった。ここ数年がどんな年だったのかが、このアルバムに切り取られていて、そしてその延長に2019年はあったからである。
 法務省出入国在留管理庁による難民の不当収容や集団リンチなど、信じがたい出来事が起きていて、それがすでに周知の事実となっている。にも拘わらず、まるでそんなものがないかのように、来年には東京五輪が開催される。『Immigration EP』には、その気持ち悪さが丁寧に落とし込まれている。ラップというメディアに、個人の日常生活の雑感が乗る形で、移民としての日常がスケッチされている。

◇つまり今回のベスト選出は、ラップないしヒップホップというメディアに何を乗せているか、という視点で行っている。ラップで何が描けるのか、という言い方でもいい。メディアとしてのラップ/ヒップホップの広がりを観察したかった。かなり色々な方向に延びていて、聞き返しながらの選出作業は非常に楽しかった。
 やはり個人的に一番面白かったのは2位のJuu & G. Jee『New Luk Thung』。メコン川は世界でも有数の巨大な三角州を持つ河川だが、今年の11月の報道によると、タイ東北部ではダム建設と干ばつによって水量を大きく減らしているという。その報道の数週間後、関東地方や東北地方では記録的な台風があり、東京でも二子玉などの三角州地域で浸水被害が起きた。アメリカのヒップホップシーンが88ライジングを含みこむとしたら、日本のヒップホップシーンにはOMKというメコン川の流域思考を取り入れる土壌があるのだと思う。
 3位の舐達麻と6位のDos Monosは言わずもがな。いずれも明らかに今年を騒がせた3人組ラップグループだ。ここにパブリック娘。『アクアノート・ホリデイ』を加えて「ヒップホップは第三者の奏でる音楽である」とか言ってトップ10を選ぶ案も浮かんだ。舐達麻もパ娘。もそれぞれにそれぞれの日常を描写するけれど、Dos Monosの場合、リリックは、発話の際に強く「身体」を意識させる言葉選び。トラックの情報量も素晴らしく、人の声とほとんど変わらないくらいグラマラスだった。
 しかしそれにしても、舐達麻『FLOATIN’』の良さと言ったらない。MVで意図が非常によく伝わるが、おそらくあれはTBH『この夜だけは』なんだと思う。気温の低さは、自分の体温を意識させる。自他の区別を明確にし、自分の輪郭がはっきりする。どこからどこまでが自分であるのか、妙に冴えた感覚で振り返る過去のこと。アムステルダムと平岸の夜が突然つながる感覚を覚えた。

 4位MEGA-G『Re:BOOT』は好みから言えば一番好きなアルバム。というか、日本語ラップが自由に言葉を乗せるようになった00年代の空気感をそのまま持続させている。リリックをしたためる筆に力を込めるというよりか、言葉のリズムに自由に体重を乗せる。YOUTHEROCK★からのあの曲は反則に近い格好良さで、そうそうラップって言葉に体重を乗せることだった、と思い出す。
 5位SALU『GIFTED』は、生活の感覚をかなり直截にラップにしたためていて、さらっとした手触りなのにとてもエモーショナル。素直に感動してしまった。SALUの最高傑作なんじゃないかと思ってしまう。7位JIN DOGG『SAD JAKE』は『MAD JAKE』と同時発売の満を持してのアルバムだが、こちらもSALUとは違う形のドライ&エモーショナルがあり、ベタベタしない叫び声がかっこいい。ルックスもラップも、たけし映画っぽい。ラップそのもの魅力という意味では、8位Eric.B Jr.『悪我鬼 - EP』と10位Daichi Yamamoto『Andless』はやっぱり外すわけにはいかなかった。単純にうまいのと、ラッパー然とした振る舞いがすごく自然。というか、この二人をこうして併記してみると、ラッパー像みたいなものが幅広く、そして深くなったなあという印象を受ける。9位VIDEOTAPEMUSIC『The Secret Life of VIDEOTAPEMUSIC』は、これはもう単純に好きというか、音の手触りが軽やかなのに、結構複雑な味わい。その意味ではDos Monosと対になるような豊かさだった。

◇今回のランキング構成だと入れる場所がなかったが、PETZのこれにはめちゃくちゃやられた。

◇ベストアクトの方も、youtubeで見れるもので集めておいたので、よろしければ。
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午後7時。裏声でモノマネをする。

◇かかりつけのお医者さんのモノマネを、娘のリクエストでやる。診察の真似ごとをしながら、毎晩の服薬からドライヤー、歯みがきまでスムーズに行えるので便利なのだが、私はその間、ずっと裏声のままだ。
 キャシー・ベイツの愛嬌の部分のみ似ている女医さんで、経験豊富だがデータをベースに診察していくタイプの方である。こちらの質問にも両親の心配すべき点、安心すべき点を切り分けながら、明晰に回答していってくれる。

◇先週末は家族全員で近所の市民プールへ。息子はクロールがかなり上達していて、25メートルを何本も泳いでいた。練習中の平泳ぎもなんとなく形になってきた。娘は習いたての水泳教室で覚えた「水に顔をつける」を得意げに披露して、とても楽しそうだった。

◇先週の水泳が楽しく、また両親の運動不足解消にもちょうどよかったので、できたら毎週行こうと話していた。一週間後の3連休。早速、結局行かなかった。

ホウ・シャオシェン『冬冬の夏休み』は、常に心配させられ続ける映画だった。のどかな田舎ムービーというよりかは、むしろ粗野で乱暴な方の田舎ムービーで、いつだれが死んでもおかしくない、極めてハラハラするシーンばかりだ。途中、小道具でドラえもんの単行本が登場するが、産業廃棄物である土管の置かれた空き地がそのまま広がったら、『冬冬の夏休み』に描かれた田舎町になる。そしてそこにはドラえもんひみつ道具ももちろんない。子どもが持っているのはタケコプターではなく、扇風機のおもちゃだ。
 母の手術を控えた冬冬と妹の婷婷は、母方の祖父母宅に預けられる。台北からトンローまでの引率役を、頼りないおじとそのガールフレンドが担うことになった瞬間から、どのシーンもたまらなく不安に映りはじめる。長閑な風景のなかで無邪気に遊ぶ子どもたちの姿は、どこをとっても死と隣り合わせだ。
 劇中、死は何度も子どもたちの前に姿を見せ、兄妹はついにその輪郭をはっきり捉えて、この夏を越えていく。台北への帰り道、トンローでできた仲間に別れの挨拶をする冬冬。兄を待つ車中で、婷婷が父に笑って耳打ちする。「あの子たち、裸で川を泳ぐのよ」。この台詞に涙が止まらなくなるのは、子どもたちの脆さと、だからこその逞しさが同時に映っていると思うからだ。
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◇書いていて気付いたが、不安と、その不安との付き合い方を描くという意味で、『冬冬の夏休み』と古谷実シガテラ』は似ている。

◇また、誰がいつ死ぬかわからないという意味では、『冬冬の夏休み』のハラハラ加減はタランティーノ作品とも似ている。

◇というわけでタランティーノ新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。ブルース・リーより強い男と、ジョディ・フォスターに絶賛される演技力を持つ男が、世界を変える物語だった。
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 考えたらタランティーノ作品は、実は愚直に「映画で世界を変える」をやり続けてたんじゃないかと思えてくる。というか、もっと言ってしまえばそれは「世界がこうだったらよかったのに」という願望だ。

ユリイカタランティーノ特集、西田博至『マーヴィン・ナッシュの耳なしファントム・ダンスホール』によれば、「しかし現実はそうなってはいない」を常に指摘する声が、タランティーノ作品にはあるという。江藤淳『日本と私』を引きながら江藤的「いやがらせ」が、そのまま『イングロリアス・バスターズ』における究極の「いやがらせ」シーンに接続される。
 だとするならば、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の読後感は、まさにそのいやがらせともいうべき「しかし現実はそうなってはいない」に満ちている。西田の論考はふたつのものの合間で「スタック」する作家としてのタランティーノを描き出すが、言い換えれば映画の入り口と出口、映画と現実の触れ方を模索している作家とも指摘できるかもしれない。

◇ところで、『イングロリアス・バスターズ』などでもはっきり思ったけれども、フィクションというのは別の位相の現実であるが、そのなかで描かれるフィクション外の「事実」や「実話」というのは何を指すのか。ひとつはっきりさせなければならないのは、実話に基づく場合、しかしそれが最終的に実話ではないということが十分に担保されていなければ、作品としての完結性を主張できない。

◇昨今、ネットフリックスの『全裸監督』が実話に基づくゆえに様々な問題を抱えてしまっているが、あれはかえって、「しかしそれは実話ではない」を十分に担保できていないことの証明でもある。実際、『全裸監督』のプロモーションは、「これは実話なんです」と殊更に言い募ることで展開されていた。「世界がこうだったらよかったのに」という願望をそのまま作品にした後、「しかし世界はこうなっていない」を突きつけることなく、「世界はこうであるべきだ」と主張している。「世界はこうだった」と、自分たちに不都合な現実を無視する歴史修正に至るまでは、あと少しだ。
 現在は一般人として生活を送る女性が、その歴史修正の過程で虐げられているのは言うまでもない。
 なるほどたしかに『全裸監督』は、日本オリジナルのコンテンツだろう。フィクションを自律した作品とみなし、我々の暮らす生活空間とは別の位相に置かれた現実なのだという理解ができない、つまり批評のない場所だからこそ展開できるコンテンツ。

◇話がそれてしまった。こうした議論以前の問題で終わりたくないと思っていて、フィクションにおける実話のことを考えるときに、タランティーノとは別に考えておきたいのがコーエン兄弟や、あるいはポール・トーマス・アンダーソンであるような気がしている。『ファーゴ』『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』『マグノリア』『パンチドランク・ラヴ』など、いま思いつく限りでも、妙な実話の使い方をしている。一番ねじくれている『ファーゴ』が、実はもっともわかりやすく実話とフィクションの関係を物語っている気がする。
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午前0時。閉じなくなった冷凍庫。

◇少し奥のものを出して配置を変えたら、閉まらなくなった。それ自体はよくあることだが、季節がら、庫内温度の上昇を知らせるアラート音が、思ったより早く鳴る。しかし冷凍庫のスペースを無駄なく使いこなす妻の手腕には毎度感心する。そういえば妻はテトリスが得意だった。

◇先日養殖していたザリガニはもうすべて食べきっていたので、昨日は台風が来る前に近くの用水路に向かった。すぐに息子はかなり大きな一頭を発見し、バケツのなかを覗き込みながら、しきりに食べがいがありそうだと話していた。ザリガニをすでに食材として見る視点が備わっている。レモン&塩茹でがいいらしい。娘はザリガニに名前をつけてしまっていて、私は食べづらくなるからやめてほしいと言った。食べづらくならないよ、という回答をもらったが、どうせ娘と妻はザリガニを食べない。
 大きさのバラバラな3頭を捕まえて帰宅して、手製の水槽に放す。放すやいなや、もっとも体の小さな1頭がもっとも体の大きな1頭に掴みかかっていった。危ないので水槽内”個室”を用意したが、しばらくするとそのちびはそこから脱走し、だれかれ構わずまた喧嘩を吹っかけていった。今朝みたら案の定、食べられてしまっていた。

◇選挙の日だからちょうど1週間前になるが、特番を見るためにテレビをつけたら「ナニコレ珍百景」が映っていた。奄美大島の離島に、移住したり“国内留学”してる子たちの特集だった。
 京都から一年間の留学に来てる小学五年生の男の子が色々と無邪気に話しながら、ふいに「この一年を無駄にしたくない」と言い出し、私は驚きつつ少し笑い、そしてそのあと悲しくなった。
 本人が本気で思ってるというよりかは、体重の乗っていない、他愛のない台詞なことは明白だった。その”意識高い”系の台詞と、のびのびとした離島の雰囲気のミスマッチが番組内の和やかな笑いを作っていた。しかしむしろ、子どもの他愛のない台詞のなかに「一年たりとも無駄にできない」みたいな空気が入り込んできたことに、私はショックを受けていた。
 大人は、子どもにこういうことを言わせたくない。

◇子どもをのびのびと育てたいというのは、多くの場合、親側が用意する建前だ。本音のなかには、国内留学経験を積んで、ゆくゆくは子どもには国外の大学に入学してほしいとか、そういうものもあるだろう。
 あらゆる場面で、今は明らかにそういう建前すら失われてしまっている。血走った目で「遊ぶために離島留学するんじゃねえからな」と言い聞かせる態度の方が“普通”であり、今どきの子どもはそういう空気を敏感に察知しながら生きている。無邪気にのびのびとした環境下ですら「一年たりとも無駄にしたくない」と小学五年生に言わせてしまう。

◇建前というのは、つまり理想のことである。豊かさという余裕が明らかになくなっていて、どんどん世の中が貧しくなっていくことに辟易する。

◇小学五年生の子どもがこんなことを言ったら、大人はしっかり答えなければいけない。
 なにか目標を定めて走る姿勢は身につけた方がいいけど、それで達成できるゴールの水準は、よくてその目標程度。ほとんどがそれ以下だろう。間違ってもその目標以上にはならない。自分の設定できる目標なんて知れている。
 目標以上のことができるようになるためには、なんのためにやってるのかわからない「無駄な経験」をたくさん積む必要がある。いまはなにをやっているのかわからず、無駄としか思えないだろう。しかしいつかそれを思い返し、色んな角度から考え直してみることができれば、それは「無駄な経験」であることをやめるだろう。物事の価値を自分でつけられるようになることを、成長と呼ぶ。
 はっきり、まじめに、そういうことを言えなければならない。

◇この期に及んで皮肉ばかり言う態度は、センスがないとかそういうことを通り越して、それは単純に頭が悪いのだと思う。私は今回の野党共闘を支持し、これからの野党共闘に期待する。

松本人志という才能をきちんと育て、称揚できたのは、明らかに豊かさのおかげだっただろう。これはたしかに、現在のコンプライアンス云々を批判する話にもなるが、どちらかというとそういうことを言いたいわけではない。あらゆる暴力が、どこか現実と遊離しているように感じられる時代が、たしかにあった。現実には、ただ暴力は隠蔽されていただけだ。しかしその隠蔽によって、暴力をある種、現実とは別の位相で捉えて考える機会を作っていたのは確かである。

ごっつええ感じの『豆』は、いわゆる「えせ同和行為」を題材にしたコントで、この番組およびダウンタウンにしては珍しい社会的なイシューを扱っているかのように見える。しかしやはり内容を見れば社会派のそれではなく、暴力への無邪気な憧憬である。だからこそ、イデオロギーないし正義ないし善意を変質させてしまう暴力を、純粋に描くことに成功している。ダウンタウンの卓越した構成とたぐいまれなる演技力によって、暴力そのものが極めて魅力的な笑いになる。あるいは、笑いが暴力に近いところに置かれる。つまりコント内で暴力をふるうことによって、ダウンタウンはその卓越した構成とたぐいまれなる演技力を存分に発揮している。
ごっつええ感じ「豆」 - YouTube

ごっつええ感じ 豆2 - YouTube

 きっかけは人権でもなんでもいい。とにかく暴力の享楽を味わいたい。ここに描かれているのは、えせ同和行為の再現ではない。コントという大義名分さえあれば、暴力の享楽に溺れることができる。えせ同和行為そのものが、ダウンタウンには可能なのだ。

◇世の中がこういった暴力をコントの形で受容できたのは、別に高い次元で暴力をとらえなおすことができていたからではない。単に暴力が、多くの人にとって現実と離れた場所にあると考えられていただけだ。

◇とはいえ、それ以外に暴力を現実より高次に捉えなおす方法はないだろうが。

ダウンタウンの才能は、すべてを現実と遊離したものと捉える視点であることは間違いない。松本人志単体でいえば、すべてを現実離れしたものとしか捉えられない、とさえ言える。そんな彼に「マジ」で「ガチ」な話を期待することはできないし、期待しようとしてベタに切り取るのも不思議だ。
 そしてその意味では、むしろ今こそ、ダウンタウンの才能をきちんと評価できるタイミングなのではないか、とも思う。そして私は、明らかに、ダウンタウンの才能の凄まじさに震える人間のひとりだ。

午後7時。ひな人形をしまう。

◇ひな人形を出したばかりのときはみな大喜びで大歓迎だったが、しまうときはそっけないもんだった。

◇今度の会社は出社も退社も遅いので、定時あがりで大急ぎで帰っても、子どもたちが布団に入る時間にかかってしまう。そのタイミングで私が家に帰ると、眠りに落ちるか落ちないかだった子どもたちのテンションがまたぶり返し、お祭り騒ぎになってしまう。私は外で少し時間をつぶすことになる。だから平日、子どもたちと話すのはもっぱら朝になる。

◇帰宅後の私の楽しみは、一杯やりつつ、妻から子どもたちの話を聞くことだ。
 日中は、どうやら息子が妻の話相手をしているらしい。娘の食事の好き嫌いに悩む妻が、4月からの幼稚園生活を心配していると、息子はきっぱりと、大丈夫だよと言った。「自分で決めたことならできるんだよ」。息子にそういうところがあるので、その話には確かに説得力があるのだが、はたして。

◇兄の影響で、娘も習い事を始めたいらしい。兄は妹と連弾をしたいらしく、ピアノをおすすめするが、娘は日によって体操がやりたいと言ったり、空手がやりたいと言ったり、新体操がやりたいと言ったり、結構移り気だ。兄はおもちゃもおかしも、自分の欲しいものがなければ欲しがらないが、娘はとりあえず何かを欲しがる。習い事もまったくそんな感じになっている。色々ああでもないこうでもないと家族全員で話し合った結果、とりあえず春休みに、短期の水泳教室を体験してみることに決めた。水泳は水に顔をつけなければならないと知ったその日の晩、妻との入浴中に、娘は自主的に練習を申し出たのだった。

笑福亭松之助は、さんまの師匠であるということよりも、松鶴の弟弟子だという印象の方が強い。
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◇藝術という看板さえあれば、どんなことをやっても許されると思っている人たちがいる。この期に及んでイデアなるものを共有できると信じる人たちが言うならまだしも(それは単なる勉強不足だろうし)、現代美術においてこんな主張をしているのだから、今回の一件には非常に驚かされた。今回の一件というのは、会田誠氏の公開講座をめぐるあれである。
 まず今回の件に関して整理しなければならないが、女性が苦痛を覚えたのはたしかに会田誠氏の作品に触れた結果だが、訴えの矛先は講座の主催側である。この女性の主張に同意するかしないかについては別の議論が必要だろうが、そもそもこの訴え自体が、作品と鑑賞者の出会い方に対する訴えであるという点を見逃すわけにはいかない。

◇それはともかくとして、「すべての藝術作品には、普遍的で絶対的な美が宿っている」や「その絶対的な美を、すべての人間は平等に享受すべきである」といった主張に対し、それをある意味牧歌的だと捉えたうえで展開せざるを得ないのが、今日における表現である。20世紀までの、そして20世紀からの、あらゆる暴力を踏まえたうえでまだそんなことを言うのだとしたら、彼はきっと、人間というのを極めて限定的に捉えていくことになるだろう。「この作品をわかるやつだけが人間である」と。
 ぶっちゃけた話、件の女性を必要以上に激しく叩く輩は、結局そう考えているのだと私は思っている。作品によって苦痛を受けるというのは、よくあることだ。そして、苦痛は苦痛であり、そうした暴力が発生しないように努めるのが、いまのところ、私たちがギリギリ依って立つことのできる、わずかに残された‟人間性”である。

◇少しだけ話がそれるが、「人を傷つけない表現なんてない」という主張も、このときよく目にした。人を傷つけずに済む表現だっていくらでもある、というのがまず突っ込みどころなのだが、それはまあいいとして、人を傷つけてしまう表現があり、それをどのように展開すればいいのかについては、あらゆる議論が存在しているのは、日常生活を送るうえでの当然の認識だろう。公衆の面前でのヘイト表現から、職場のセクハラ・パワハラ問題、あるいは日常生活における会話の所作に至るまで、あらゆるレベルでこうした議論は起きている。これらの議論に触れようともせずに、「人を傷つける表現」を垂れ流しにして正義を主張する表現者様の、あからさまにナイーヴを気取った暴力に、ただただ辟易する。藝術だけが、人を傷つける表現の罪深さに真摯に向き合っているとでも言いたいのだろうか。そんなことを言う「表現者」という方々は、日常生活をどうやって送っているのだろうかと、本気で不思議に思う。

◇表現というのは尊い行為だろう。藝術は尊い行為によって成り立っている。しかし藝術外に存在するあらゆる営為にも、尊さはある。