web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後7時。裏声でモノマネをする。

◇かかりつけのお医者さんのモノマネを、娘のリクエストでやる。診察の真似ごとをしながら、毎晩の服薬からドライヤー、歯みがきまでスムーズに行えるので便利なのだが、私はその間、ずっと裏声のままだ。
 キャシー・ベイツの愛嬌の部分のみ似ている女医さんで、経験豊富だがデータをベースに診察していくタイプの方である。こちらの質問にも両親の心配すべき点、安心すべき点を切り分けながら、明晰に回答していってくれる。

◇先週末は家族全員で近所の市民プールへ。息子はクロールがかなり上達していて、25メートルを何本も泳いでいた。練習中の平泳ぎもなんとなく形になってきた。娘は習いたての水泳教室で覚えた「水に顔をつける」を得意げに披露して、とても楽しそうだった。

◇先週の水泳が楽しく、また両親の運動不足解消にもちょうどよかったので、できたら毎週行こうと話していた。一週間後の3連休。早速、結局行かなかった。

ホウ・シャオシェン『冬冬の夏休み』は、常に心配させられ続ける映画だった。のどかな田舎ムービーというよりかは、むしろ粗野で乱暴な方の田舎ムービーで、いつだれが死んでもおかしくない、極めてハラハラするシーンばかりだ。途中、小道具でドラえもんの単行本が登場するが、産業廃棄物である土管の置かれた空き地がそのまま広がったら、『冬冬の夏休み』に描かれた田舎町になる。そしてそこにはドラえもんひみつ道具ももちろんない。子どもが持っているのはタケコプターではなく、扇風機のおもちゃだ。
 母の手術を控えた冬冬と妹の婷婷は、母方の祖父母宅に預けられる。台北からトンローまでの引率役を、頼りないおじとそのガールフレンドが担うことになった瞬間から、どのシーンもたまらなく不安に映りはじめる。長閑な風景のなかで無邪気に遊ぶ子どもたちの姿は、どこをとっても死と隣り合わせだ。
 劇中、死は何度も子どもたちの前に姿を見せ、兄妹はついにその輪郭をはっきり捉えて、この夏を越えていく。台北への帰り道、トンローでできた仲間に別れの挨拶をする冬冬。兄を待つ車中で、婷婷が父に笑って耳打ちする。「あの子たち、裸で川を泳ぐのよ」。この台詞に涙が止まらなくなるのは、子どもたちの脆さと、だからこその逞しさが同時に映っていると思うからだ。
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◇書いていて気付いたが、不安と、その不安との付き合い方を描くという意味で、『冬冬の夏休み』と古谷実シガテラ』は似ている。

◇また、誰がいつ死ぬかわからないという意味では、『冬冬の夏休み』のハラハラ加減はタランティーノ作品とも似ている。

◇というわけでタランティーノ新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。ブルース・リーより強い男と、ジョディ・フォスターに絶賛される演技力を持つ男が、世界を変える物語だった。
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 考えたらタランティーノ作品は、実は愚直に「映画で世界を変える」をやり続けてたんじゃないかと思えてくる。というか、もっと言ってしまえばそれは「世界がこうだったらよかったのに」という願望だ。

ユリイカタランティーノ特集、西田博至『マーヴィン・ナッシュの耳なしファントム・ダンスホール』によれば、「しかし現実はそうなってはいない」を常に指摘する声が、タランティーノ作品にはあるという。江藤淳『日本と私』を引きながら江藤的「いやがらせ」が、そのまま『イングロリアス・バスターズ』における究極の「いやがらせ」シーンに接続される。
 だとするならば、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の読後感は、まさにそのいやがらせともいうべき「しかし現実はそうなってはいない」に満ちている。西田の論考はふたつのものの合間で「スタック」する作家としてのタランティーノを描き出すが、言い換えれば映画の入り口と出口、映画と現実の触れ方を模索している作家とも指摘できるかもしれない。

◇ところで、『イングロリアス・バスターズ』などでもはっきり思ったけれども、フィクションというのは別の位相の現実であるが、そのなかで描かれるフィクション外の「事実」や「実話」というのは何を指すのか。ひとつはっきりさせなければならないのは、実話に基づく場合、しかしそれが最終的に実話ではないということが十分に担保されていなければ、作品としての完結性を主張できない。

◇昨今、ネットフリックスの『全裸監督』が実話に基づくゆえに様々な問題を抱えてしまっているが、あれはかえって、「しかしそれは実話ではない」を十分に担保できていないことの証明でもある。実際、『全裸監督』のプロモーションは、「これは実話なんです」と殊更に言い募ることで展開されていた。「世界がこうだったらよかったのに」という願望をそのまま作品にした後、「しかし世界はこうなっていない」を突きつけることなく、「世界はこうであるべきだ」と主張している。「世界はこうだった」と、自分たちに不都合な現実を無視する歴史修正に至るまでは、あと少しだ。
 現在は一般人として生活を送る女性が、その歴史修正の過程で虐げられているのは言うまでもない。
 なるほどたしかに『全裸監督』は、日本オリジナルのコンテンツだろう。フィクションを自律した作品とみなし、我々の暮らす生活空間とは別の位相に置かれた現実なのだという理解ができない、つまり批評のない場所だからこそ展開できるコンテンツ。

◇話がそれてしまった。こうした議論以前の問題で終わりたくないと思っていて、フィクションにおける実話のことを考えるときに、タランティーノとは別に考えておきたいのがコーエン兄弟や、あるいはポール・トーマス・アンダーソンであるような気がしている。『ファーゴ』『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』『マグノリア』『パンチドランク・ラヴ』など、いま思いつく限りでも、妙な実話の使い方をしている。一番ねじくれている『ファーゴ』が、実はもっともわかりやすく実話とフィクションの関係を物語っている気がする。
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