web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前10時半。歯医者に遅れる。

◇雨が微妙に降っていた。余裕をもって車で歯医者に向かうが、そろそろ着くという頃に、妻から忘れ物を指摘する連絡があった。

◇歯医者の帰り、私たちは車を停めた商業施設で買い物をした。考えたら息子と二人きりの買い物は久しぶりかもしれない。妹と対照的に、欲しいものを全然ねだらない息子だが、今日はダイソーで息子のほしいものを買った。欲しいものないの?と私が聞くと、一度「ない」と即答し、しばらくしてから「やっぱり…」と言い出した。文房具コーナーの前だった。しばらく罫の間隔や枚数などを吟味してから、一冊の大学ノートを選ぶ。息子は「学校で使うものじゃないんだけど」とだけ話し、コクヨのキャンパスノートを買い物かごに入れた。

◇家に帰ると、娘が最近開発したレシピで、妻と娘がマフィンを焼いていた。
 母の日に、ブラウニーのあまり材料で娘とバナナマフィンを作ったのである。これを気に入った娘がレシピを忘れたくないと言い、ワードで工程をまとめてプリントアウトした。そのレシピは、娘がキッチンの扉にセロテープで貼り付けていた。今日はそれを見ながら、少しアレンジを加えて焼いたようだった。フィナンシェの口直しつきの、少し洒落た土曜の昼食となった。

◇先日脱皮をしたザリガニが、夜中にバケツをひっかく。冬を超え、梅雨を迎え、いよいよ夏に向けてウォーミングアップをしている。

上島竜兵の訃報に驚き、自ら命を絶ったと知ってとまどい、次に「もしかしたらそうなのかもなあ」と納得しかけたところで、やっぱりやめた。私は、上島竜兵のことをあまり知りたくないと思った。

◇マスメディア上で自死のニュースを無配慮に垂れ流すことの危険性は、これまで何度も指摘されてきた。指摘されているにも関わらず繰り返されるのは、ひとつにはメディアの不勉強があり、もうひとつにはやはり耳目を集めてしまうという事情もあるのかもしれない。
 だがしかし、今回はなんとなく、割と早めに過剰な報道は控える方向に舵を切った印象がある。早々と暴走し始めたテレビ番組があったことや、その生放送中に出演者が問題点を明確に指摘した、ということも影響したのかわからない。けれど自分には、やっぱり本質的に、テレビに映っていないときの上島竜兵を知りたくない、という人が結構いるんじゃないか、という気がしてくる。

上島竜兵への目線というのは、大きく変化してきたと思う。
 「お茶の間」と呼ばれたマスメディアの受け手たちはかつて、テレビのなかで起きたことを「本当のこと」だと信じていた。もちろん萩本欽一が素人にテレビカメラを向けてしまったことも要因のひとつではあると思うけれど、それ以前から、トニー谷の事件を挙げるまでもなく、単純に視聴者が未成熟だった、という方がわかりやすい。笑芸人というのは、素のままでテレビという舞台に上がり、「リアルガチ」のリアクションを素のままで繰り広げているように誤解されてきた。だからダチョウ倶楽部出川哲郎という、話芸よりも(ある種の)体技に磨きをかけてきた笑芸人たちは、お茶の間から「芸がない」と思われ、二流三流の烙印を押されてきた。
 こうした笑芸人たちに対して、「リアクション芸人」という再評価の兆しが見え始めたのはいつからだったか。マスメディアの受け手が「お茶の間」から性別年齢別の「視聴者層」に移行していったのと並行して、明石家さんまは『恋のから騒ぎ』で「出川は一流や」と言い放ち、森達也は『ドキュメンタリーは嘘をつく』と明言した。上島竜兵を芸のない芸人だと思い込んでいた受け手たちも、こういった見方が広まるにつれ、一度はとまどい、やがて「もしかしたらそうなのかもなあ」と納得していったのだろう。
 ただ、テレビのなかの出来事は「テレビというルールのなかで起きていること」には違いないが、だからといって事実と全く異なるわけではない。あらゆる空間には小さな事実や小さな嘘が混在していて、そこにカメラが入ると、映す角度によってどこかの部分が大きく見える可能性がある、ということである。ドキュメンタリーは「嘘である」わけではなく、「嘘をつく」に留まる。カメラの前の出来事は、全くの「本当」ではないのと同じ程度には、全くの「嘘」でもない。
 上島竜兵にどのような嘘があったかは知らない。「素」の上島竜兵がどのような人であるかは知りたくない。南部虎弾が弔意を表すとき、とまどいを率直に述べるときは気丈に振舞っていたのに、ネタのときに決壊してしまうのはなぜか。上島竜兵がカメラの前に提示した「リアル」の方にこそ、「本当」はあるべきではないのか。
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