web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後3時半。雨を見る。

◇結局、雪にはならなかったんじゃないか。

◇あまりにも久々過ぎて、このブログの表記ルールというか、定型を忘れてしまった。「◇」を打ってから書き始め、一息ついたらまた「◇」を打つ、だった。

◇2020年に始まったコロナ禍はいまだ継続中で、これまでと同じようには季節の移ろいを感じにくくなっているのだが、それでも昨年中はいくつか文章を書いていて、そういうのを読み返すと、自分の気持ちやテンション、感情の起伏の変化が見て取れる。その文章が書かれたときから今までの距離を見て、これはさすがにある程度時間が経過しているな、と思ったりする。考えや心情が変わったとかではなく、単純に時間の経過がわかる、といったくらいの話。文章を書いて、時間に目印をつけているような気分。

◇小学生の頃、全校集会と呼んだか、1年生から6年生までが同じタイミングで校庭に集まる機会というのが定期的にあった。背の順に整列して校長先生の話を聞いたりして、また教室に戻るのだが、私は当時、多分階段をぐるぐる登っているときだったと思うのだけれども、なんだか自分がどこからどこまでなのかわからなくなって、少し混乱することがあった。前の人も、その前の人も、その前の前の人も、みなが階段を登っていて、後ろの人も、その後ろの人も、同じように階段を登っている。前の人と後ろの人に挟まれて、私はいま足を動かして階段を登っているけれど、これ、足を止めることできるんだろうか。自分の意志で、自分の足を止めることができるんだろうか。なんだか、自分の運動が自分にはコントロールできないような感覚を覚えた。なぜそんな技を編み出したのかわからないが、そんなとき、私は自分の手のひらを見つめ、ああこれが自分かと、ぐっと自分の意識をはっきりさせるのだった。
 文章を書く行為は、ちょっとそんなことを思い出させる。

◇最近、学習机ではなく、ダイニングテーブルで子供の勉強を見ている。対面しているので、息子が書く漢字は上下さかさまである。命という字は、上下逆にするとけっこうウルトラマンの顔に似ている。

前回も同じようなことを書いたけれども、2019年には川崎市でヘイト罰則条例が可決、伊藤詩織さんの民事裁判で勝訴、といった出来事があり、最悪がついに底を打つ音を聞いた気がした。実は2020年も同様で、大坂なおみ選手がBLMを掲げて全米オープンで二度目の優勝を果たし、大阪市廃止を巡る投票では、維新が公明党を抱き込んでも否決された。相変わらず最悪だが、最悪は横ばい状態に入ったと思う。あとはいつそこから抜け出るかが問題で、その機運は感じつつも、他国の大統領の蛮行に追従する日本の人々を見てため息をつく。彼らの文章に驚くほど誤字脱字が多いのは、彼らは自分が書いたものを読み返せないからだろう。ああはなるまい。ああはなりたくないので、私は自分の文章を読み返そうと思うし、読み返せるような文章を書こうと思う。恥ずかしい過ちも浅はかな考えもあるだろうけれども、何が悪いんだと開き直らず、悪いものは悪いと言えるように、しっかり読み返すことに意味がある文章を書いていこうと思う。

◇文章がなんとなくダウナーなのは、右肩が痛いからだ。自動車を買って、電車に全く乗らなくなり、最寄り駅までも歩かなくなった結果、運動不足はいよいよ決定的になっていると思う。

◇年が明けてしまったけれども、今年もありがたいことに、MiseColvicsさんのところでヒップホップベストをチョイスさせてもらった。ご笑覧ください。
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◇今回はどんなランキングを作ろうかと思って結構考えてしまったんだけれども、少なくとも「2020年に誰がいたか」ということを、ここ10年くらいのスパンで考えてみると、間違いなく「Moment joonがいた」という年になると思う。2019年に出した『Immigration EP』の時点でそれは確定だったけれども、今作『Passport & Garcon』はさらに1枚のアルバム作品としての完成度も高めていた。ヒップホップってどんなフォームの表現なの?という人がいたら、とりあえずこれを一枚手渡せばいい。日本語ラップはフェイクなのかリアルなのかという論争さえ懐かしく感じられるようになってしまった原因は、日本語のラップ表現自体の技術的浸透、日本にはもはや一億総中流的「普通」などどこにもない点、アメリカのヒップホップのフェイクくささが露呈したことなど、枚挙に暇がないけれど、そういう時代にあってなおリアルと言い切れる作品が『Passport & Garcon』だった。
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 このまま『Passport & Garcon』を1位においても十分語れることはあるんだろうけれども、私が今年、ふと気づけば聞いていたのがBLYY『Between man and time crYstaL poetrY is in motion.』だった。「2020年に誰がいたか」という問いをもう一度、今度は別の角度から考えてみると、BLYYになる。2020年は、コロナ禍やら日本社会の愚かさやらアメリカの惨状やらを眺めた年ではあるが、角度を変えれば、1995年からたった25年しか経過していない年なのである。おそらくBLYYを語るときに90年代ヒップホップというのはひとつのキーワードではあるけれども、90年代ヒップホップは潰えたわけではなく、完成度が上がり過ぎて袋小路に入ったわけでもなく、普通に今もずっと流れているものであることを知った。間違いなく2020年でなければ聴けない音楽になっている。批評家の西田博至が『アウトレイジビヨンド』を、羊羹のようにみっちりと詰まった映画だと評したのを覚えているけれど、ぶっきらぼうに見えて、ひとつひとつの音や言葉がみっちりと緊密に並ぶ『Between man and time crYstaL poetrY is in motion.』にもそれが当てはまる。よく聞くと変なことを言っていたり、変な音が響いていたりして、濃いだけでなく、極めて雄弁な作品でもある。緊張感が緊密に続き、そのどれもが最後まで欠けることなくぶつっと終わりを迎える、大傑作だと思う。
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◇BLYYを1位に置いて並べてみると、90年代に投げかけられた様々な問題が、さまざまなきっかけを得て、再び2020年に表に噴き上がっているようにも見えてくる。ZOOM GALSのビデオに宮台真司が登場したということもそうだけれども、おそらくAWICHは安室奈美恵の孫だし(言うまでもなく安室奈美恵の娘はAI)、NENEはコギャルに扮してNIPPSと特撮に出る。ご本人は怒るかもしれないけれど、フェイクというかコンセプト先行だった井上三太をリアルにしていった先には『少年インザフッド』がある。これは90年代が、懐古とかリバイバルの対象のように見せかけて、実は思いっきり「いま現在の問題」のままでいる、ということでもある。当時はシニカルに笑いながら辛いとつぶやいていたものが、今はシリアスに疲れ切った表情で辛いとつぶやくようになった。そんな感じである。

◇WEBというくそつまらない場では、ネタ的消費などいまやどこにもなく、最近のタランティーノ映画が史実と異なることに怒り出す人も現れる始末。ハイコンテクストどころか、140字程度のコンテクストさえ読みこなせず、というかテクストを二度読むことなどなく、あらゆるものがベタと勘違いに塗れる。
 そんな状況を横目に軽やかさを持って乗りこなしたいと思う人々がすがりつくところに、もしかしたら菊地成孔がいるかもしれないとも思う。彼のトランプ支持自体は逆張りでないにしても、トランプ支持をあえてWEB上で展開する行為は、きっと逆張りだと思う。私のような俗物的な人間は、まあWEBなんてくそつまらないものなので、そういうつまらない場ではベタベタな正論でも言っておけばいいと思うんだけれども、そしてそれこそが95年を曲がりなりにも知っている(95年に精通があったと思う)私の処世術なのだけれども、おそらくそれを引き受けるのは、ある種の人々にとっては極めて耐え難いものなのだと思う。それはまあ、そういうもんだろう。

◇あえてひとつ菊地成孔の態度への疑問を挙げるとすれば、なぜWEBに書くのか、というところ。印刷のようなものではなく、ぱっと消える言葉というところに魅力を感じている可能性はあるけれども、だとしたら彼にはラジオがあるじゃないか、と。いや、あのトランプ支持を表明したあの記事は、菊地成孔がラジオ番組を終了した後のものだったっけ? 調べりゃすぐわかるんだろうけど。
hillslife.jp
 記事が公開されてから随分経って「炎上」している状況だが、蛇足ながら私見を述べておくと、正直いつもの切れ味と混沌があまり感じられず、そこに火の手がつけいる余地があったということなんだと思う。ただ、あの記事はトランプがここまで大騒ぎする前に書かれたものであり、それはつまり、まだトランプが何も(戦争も)起こしていない(ように見える)状態で読まれるべきテキストだった。菊地成孔氏が考えを変えたかどうかということではなく、テキストが読まれるべきタイミングが全然違う。だからつまり、いまさらの「炎上」というのは間違いなく後出しジャンケンであり、あのトランプの馬鹿騒ぎについてあらためて言及するのを待ってからでないとフェアではない。まあどんなロジックやどんなレトリックを用いても、人はそんなに対話を求めてないのでどうせ結果は同じ、だとは思うけれど。

◇毎年、勝手にやっているBEST actというのも、2020年はこんな感じになりました。
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dodoはラップもトラックも素晴らしいけれど、実はビデオの名手で、『kill more it』に奇跡的な瞬間が写っているのは、おそらく偶然じゃない。画角も何もかなり計算して撮ったであろう『nambu』のビデオでも、同じものが写っているからだ。ヒップホップアーティストは、レコードジャケットかビデオといったビジュアル表現なくしては成り立たないと思っているのだけれども、dodoがその説を証明してくれるような気がする。

◇まあともかく、2020年は年末にアラザル13を出すことができてよかった。