web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

ラップ論メモ1

 いわゆる歴史の話を聞くと、なんだか自分と切り離された物語を見ているような気分になる、というのがまあ正直なところだろう。流れていく時間の一部を自分が担うというよりは、大文字として記録されるべきひとつの時間が流れていて、それはこの社会を築く主流であり、それと並行して流れる別の小さな時間のなかに自分が居るようにすら思えてしまう。ある側面ではこれは正しいのかもしれないのだが、内的な時間と外在化した時間の二つしか存在せず、内的であると同時に公的な時間の存在を忘れてしまっているようにも見えるのである。いわゆる世界と自分の尊大な二項対立、ということになる。
 ラップは、まず外在する時間を体内に取り戻す。日常的な言葉を、自分の声を使って持続的なリズムに作り替える。これは正統な生の記録だろう。こうして作り出された彼の内的時間の記録は、次にリミックスやサンプリング、その他DJプレイの中で断片的に切り刻まれる可能性を孕む。ラッパーは自分の内的な持続をもった時間が、ある視点からは断片的に捉えられる、ということを前提とした上で生を記録するのである。つまりここには、自分と世界だけがあるのではなく、自分と世界の関わりを見つめる誰かの視点が常にある。
 ラッパーのシアトリカルな態度とは、つまりこの第三者の視点を担保するものだろう。自分をキャラクター化して捉えることで、自分がどのように世界を見ているのかを自覚する。性別、地域、国籍、趣味、思想、自分を取り巻くあらゆる社会的な属性と、そこに顕われる感覚や感情の全てに自覚を挟み込み、自分が世界をどのようなフィクションとして描き出すのかを見る。全てのラッパーがヒップホップという文化の成員であるというのはそのような意味である。そこには正史も偽史もない。
 膨大なアーカイヴを盾に歴史の終わりを主張されても、どうしても失笑してしまいそうになるのは、おそらくこうした営みを見ているからだろう。記録は、大文字の歴史にのみ特権的に許された行為じゃない。そういう風に見える瞬間があったというだけの話。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110806より抜粋