web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前0時。閉じなくなった冷凍庫。

◇少し奥のものを出して配置を変えたら、閉まらなくなった。それ自体はよくあることだが、季節がら、庫内温度の上昇を知らせるアラート音が、思ったより早く鳴る。しかし冷凍庫のスペースを無駄なく使いこなす妻の手腕には毎度感心する。そういえば妻はテトリスが得意だった。

◇先日養殖していたザリガニはもうすべて食べきっていたので、昨日は台風が来る前に近くの用水路に向かった。すぐに息子はかなり大きな一頭を発見し、バケツのなかを覗き込みながら、しきりに食べがいがありそうだと話していた。ザリガニをすでに食材として見る視点が備わっている。レモン&塩茹でがいいらしい。娘はザリガニに名前をつけてしまっていて、私は食べづらくなるからやめてほしいと言った。食べづらくならないよ、という回答をもらったが、どうせ娘と妻はザリガニを食べない。
 大きさのバラバラな3頭を捕まえて帰宅して、手製の水槽に放す。放すやいなや、もっとも体の小さな1頭がもっとも体の大きな1頭に掴みかかっていった。危ないので水槽内”個室”を用意したが、しばらくするとそのちびはそこから脱走し、だれかれ構わずまた喧嘩を吹っかけていった。今朝みたら案の定、食べられてしまっていた。

◇選挙の日だからちょうど1週間前になるが、特番を見るためにテレビをつけたら「ナニコレ珍百景」が映っていた。奄美大島の離島に、移住したり“国内留学”してる子たちの特集だった。
 京都から一年間の留学に来てる小学五年生の男の子が色々と無邪気に話しながら、ふいに「この一年を無駄にしたくない」と言い出し、私は驚きつつ少し笑い、そしてそのあと悲しくなった。
 本人が本気で思ってるというよりかは、体重の乗っていない、他愛のない台詞なことは明白だった。その”意識高い”系の台詞と、のびのびとした離島の雰囲気のミスマッチが番組内の和やかな笑いを作っていた。しかしむしろ、子どもの他愛のない台詞のなかに「一年たりとも無駄にできない」みたいな空気が入り込んできたことに、私はショックを受けていた。
 大人は、子どもにこういうことを言わせたくない。

◇子どもをのびのびと育てたいというのは、多くの場合、親側が用意する建前だ。本音のなかには、国内留学経験を積んで、ゆくゆくは子どもには国外の大学に入学してほしいとか、そういうものもあるだろう。
 あらゆる場面で、今は明らかにそういう建前すら失われてしまっている。血走った目で「遊ぶために離島留学するんじゃねえからな」と言い聞かせる態度の方が“普通”であり、今どきの子どもはそういう空気を敏感に察知しながら生きている。無邪気にのびのびとした環境下ですら「一年たりとも無駄にしたくない」と小学五年生に言わせてしまう。

◇建前というのは、つまり理想のことである。豊かさという余裕が明らかになくなっていて、どんどん世の中が貧しくなっていくことに辟易する。

◇小学五年生の子どもがこんなことを言ったら、大人はしっかり答えなければいけない。
 なにか目標を定めて走る姿勢は身につけた方がいいけど、それで達成できるゴールの水準は、よくてその目標程度。ほとんどがそれ以下だろう。間違ってもその目標以上にはならない。自分の設定できる目標なんて知れている。
 目標以上のことができるようになるためには、なんのためにやってるのかわからない「無駄な経験」をたくさん積む必要がある。いまはなにをやっているのかわからず、無駄としか思えないだろう。しかしいつかそれを思い返し、色んな角度から考え直してみることができれば、それは「無駄な経験」であることをやめるだろう。物事の価値を自分でつけられるようになることを、成長と呼ぶ。
 はっきり、まじめに、そういうことを言えなければならない。

◇この期に及んで皮肉ばかり言う態度は、センスがないとかそういうことを通り越して、それは単純に頭が悪いのだと思う。私は今回の野党共闘を支持し、これからの野党共闘に期待する。

松本人志という才能をきちんと育て、称揚できたのは、明らかに豊かさのおかげだっただろう。これはたしかに、現在のコンプライアンス云々を批判する話にもなるが、どちらかというとそういうことを言いたいわけではない。あらゆる暴力が、どこか現実と遊離しているように感じられる時代が、たしかにあった。現実には、ただ暴力は隠蔽されていただけだ。しかしその隠蔽によって、暴力をある種、現実とは別の位相で捉えて考える機会を作っていたのは確かである。

ごっつええ感じの『豆』は、いわゆる「えせ同和行為」を題材にしたコントで、この番組およびダウンタウンにしては珍しい社会的なイシューを扱っているかのように見える。しかしやはり内容を見れば社会派のそれではなく、暴力への無邪気な憧憬である。だからこそ、イデオロギーないし正義ないし善意を変質させてしまう暴力を、純粋に描くことに成功している。ダウンタウンの卓越した構成とたぐいまれなる演技力によって、暴力そのものが極めて魅力的な笑いになる。あるいは、笑いが暴力に近いところに置かれる。つまりコント内で暴力をふるうことによって、ダウンタウンはその卓越した構成とたぐいまれなる演技力を存分に発揮している。
ごっつええ感じ「豆」 - YouTube

ごっつええ感じ 豆2 - YouTube

 きっかけは人権でもなんでもいい。とにかく暴力の享楽を味わいたい。ここに描かれているのは、えせ同和行為の再現ではない。コントという大義名分さえあれば、暴力の享楽に溺れることができる。えせ同和行為そのものが、ダウンタウンには可能なのだ。

◇世の中がこういった暴力をコントの形で受容できたのは、別に高い次元で暴力をとらえなおすことができていたからではない。単に暴力が、多くの人にとって現実と離れた場所にあると考えられていただけだ。

◇とはいえ、それ以外に暴力を現実より高次に捉えなおす方法はないだろうが。

ダウンタウンの才能は、すべてを現実と遊離したものと捉える視点であることは間違いない。松本人志単体でいえば、すべてを現実離れしたものとしか捉えられない、とさえ言える。そんな彼に「マジ」で「ガチ」な話を期待することはできないし、期待しようとしてベタに切り取るのも不思議だ。
 そしてその意味では、むしろ今こそ、ダウンタウンの才能をきちんと評価できるタイミングなのではないか、とも思う。そして私は、明らかに、ダウンタウンの才能の凄まじさに震える人間のひとりだ。