ワナビーとオリジナルの間に存在する超えられない壁(未推敲)
◇おそらく最後の授業が終わった・・・。
前半は不可視学生としてねじくれたキャンパスライフを過ごしていたけれど、3年の秋に始まった『文化系トークラジオLife』のおかげで僕の自意識に突破口ができ、後半は力を抜いて通学できるようになった。Lifeがなければ、いまだに僕は「期待」*1に応えてくれない我が校を罵り続けw、歪んだ思いを成仏させられずに居たかもしれないなあ。
◇就職活動奮闘中。
◇自分が文化系女子批判をしたい理由をぼんやり考えていたのだけれど、その根底にあるのは多分ワナビー嫌悪だと思う。多分オリジナル文化系女子はキライじゃないと思う。・・・てか、オリジナル文化系女子ってどんなの?文化系女子からワナビー志向を取ったらそれは「女子」なのでは?というのが批判したいポイントなんだけど、そういった話はもうちょっと後にするとして。
◇僕のイメージで勝手に分けると、まず普通に好きなものを摂取しているオリジナルな人っていうのがいて、そういう人たちを外部から系統立てて見る際の指標として、文化系だのサブカルだのアキバ系だの非モテだのっていう呼称があるんだと思う。こういった呼称が、マイノリティのアイデンティティを担保するような役割も担ったりする*2。
さて、こうした特徴付けがある程度済んできた頃、今度は文化系だのサブカルだのっていう呼称を欲しがる人々が出てくる。呼称は、そもそもオリジナルの持つ特徴を分類分けした結果でしかないのだけれど、そこにイメージが付与されると、「サブカルってカッコイイ」みたいな価値判断も出てきて、「俺もサブカルになりたい!!」みたいな欲求も生まれてくる。そのような人々を、ここではワナビーと呼ぶことにする。ワナビーたちは、○○系って呼ばれることに喜びを感じるわけだけど、そこには○○系っていうイメージをそのまま自分のパブリックイメージとして転写したい欲求がある。
まあ程度の差こそあれ、ほとんどの人はワナビー経験があるものだと思う。ただ、僕が問題にしたいのはワナビーである自分をどこまできちんと把握できているか、ということ。「周りから見られたい自分」と「実際に周りから見られている自分」の間にはいつだってギャップがあるもので、そのギャップを直視したがらないワナビーが僕はめちゃくちゃキライ*3なのだ。
◇例えば、みうらじゅんはボブ・ディランになりたかったという。ボブ・ディラン「みたい」になりたかったのではなく、ボブ・ディランそのものになりたかった*4。それは絶対に不可能なことで、ボブ・ディランと自分の間にあいた差は直視せざるを得ない。だからそこにはあきらめざるを得ない状況がある。そうしてあきらめて「しょうがない」と思う瞬間が、交換不可能な(=ショボさを伴った)自分を受け入れる瞬間でもある。
一説によると、SKAは、JAZZを演奏しようとして挫折し、同じ楽器で自分たちの出来る音楽をやろうとして出来た音楽だという。massive attackの3Dは独特の色使いをするグラフィティ・アーティストとして注目されるが、その特徴的な色使いは彼の色盲に由来するという。
理想と現実のギャップを認めることは、価値基準を自分の中で作り上げることそのものなのではないだろうか、と思ったりする。
◇話が抽象的になってきた。眠い証拠。
◇「周りから見られたい自分」と「実際に周りから見られている自分」の間に横たわるギャップを無視出来る強靭な精神の持ち主たちは、いつまでも自らが価値基準の主体となれずに、権威性を求めてしまう。そうすることでしか彼らは安心できない。
オリジナルとワナビーを分けるのはまさにここで、オリジナルは自分のかっこ悪い部分から目を逸らせないが、ワナビーは目を逸らしても平然としていられる*5。ワナビーは自分の属するトライブを権威化することで、自分のショボさを見ずに済む方法を探そうとしている気がして、その発想の小ささとわがまま具合にめちゃくちゃ腹が立つ。
○○系vs××系という対立構造を作って、自分の属するトライブをより明確にしていく。トライブが明確化すれば、上下関係や価値判断がその中で生まれ、その権威の通りに過ごしていれば自分のしょぼさは隠れてしまう、ということ。
◇さらに抽象化しまくって、なんだか「神の前での自己正当化」の話に見えてくる。
◇ギブ。何の話してるかわからなくなってきたw。眠いし読み返す気力もない・・・w。多分最近書いた学校のレポートとかがごちゃごちゃに混ざってると思うし、最近レポート文体になっていたのを無理やりブログ文体にしてるからリズムが悪い。もう少し日が経ってから読みやすい文章に改めます。