web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

孤独の全能感を信じ切れるか

◇Lifeの秋葉原の回(http://www.tbsradio.jp/life/2008/06/622part5.html)で、柳瀬さんが「ブチ切れた」ところを聞き返した。こういう形で話を相対化して、新たな視点を付け加える技術、ものすごい。
 インターネットで普遍的な問題が固有化されるってのは、たぶんそう。てか、それって僕の受けてきた「個性を伸ばす教育」みたいなもんの名残だったりすると思う。「教育によって個性をつぶしてはいけない」とか言ってたけど、「教育程度でつぶれるようなものは個性じゃない」。
 インターネットはどうやら、メインストリームの価値観では生きにくい人たちに、ある種の希望を与えたんだろうけど、メインとどのように折り合いをつけるかっていう考えを忘れさせる傾向もあるみたい。たとえば通過儀礼的な辛い体験とか、みんなが乗り越えてきたようなことも、インターネットに逃げ込めばたくさん辛いと思う人たちが集っているように見えるので、乗り越えなくてもいいものだと錯覚してしまう・・・。個の尊重という名のもとにいくらでも逃げ切れる場所。ネットにはそんな負の側面がある、ということ。
 もちろん、本当にそういうつらい体験をする必要があるのかどうかはわからない。つらい体験を乗り越えて今はよかったと思っている「大人」も、そのつらい体験を正統化するためにその価値観を死守している可能性はある。だからそうした疑問をたてることはとても大事なことだと思う。
 しかし問題なのは、そうやって成り立っているメインの価値観を簡単に否定してしまうこと。そういうメインはメインとして、人々を安心させるように生き方のロールモデルを提示する。そのロールモデル通りに進めない人を否定する理由はどこにもないけれど、ロールモデル通りに進もうと努力する人はたくさんいるわけで、そうした人々の努力を否定する理由もまたどこにもない。
 「つまり、普通なめんな。普通最強ってことだ」(ヒミズ)。
 ところが、柳瀬さんの言っていたように、「法令遵守」という考えから企業がインターネットを過剰に意識するようになると、インターネットの中でくだを巻いていたことが実際に力を持ってしまう。インターネット上で文句ぶつぶつ言うことは、最初は伊集院光的に「俺は痴豚ですけれども」っていう前置きが前提になっていたはず。けれども、法令遵守という風に企業がネットに過剰な反応を示すようになると、ベタに「おれは誰も知らない正しいことをしている」なんつーことになって、重箱の隅をつついて企業を潰すなんてことにもなる*1。つまり、法令遵守には、昔からある孤独=全能(タクシードライバーみたいな)っていう暴走を、正当化し助長するように作用する側面があるということ。
 しかし、こうした孤独=全能とかって思ってるヤツらが卑怯なのは、実はそんなところじゃない。孤独=全能を信じきるのは、それはそれでとっても誠実な態度のはず。ヤツらは見せかけだけだから、僕は卑怯だと思う。ホントに孤独の全能感を信じることができるのなら、わざわざインターネットなんてところで馴れあったりしない(「下北沢のヴィレッジバンガードが私のよくいくお店」なんて大声で執拗に騒がない*2)。ヤツらは結局自分自身の全能感を信じきることもできない。中途半端にどっかで自分が全能でないことを知っているのに、でも全能でありたいという欲求は持ち続けている。そこで、メインな価値観を目指す人の努力を認めるわけにはいかない、となる。あいつら俺より劣ってる、となる。挙句の果てにゃ、自分より弱い者を襲って安心したがる。最悪。しかも素手じゃ不安だから、武器を持つ。自意識過剰なくせに、カッコ悪い自分がわからない。

◇つまり、「ワナビーであることを認められないワナビー死ね消えろw」って話。「ワナビーであることを認められるワナビー」は大好きさw

◇ところで、『TheWorldIsMine(ザ・ワールド・イズ・マイン)』は、自分の全能を信じるために、徹底的にやるから誠実だと思う。とは思うんだけれど、でも、モンとトシを分けたところって一体どこ?モンは確かに、たとえば「歩くために邪魔だから殺した」とか「ヤリたくなって犯して用済みになったから殺した」とかって人ではあるんだけど、でもなんでわざわざ「殺すこと」自体を行うんだろう。逆にトシは明確。殺すことで自分を全能に近づけようってのが理由。この理由を裏返せば、トシはその全能性を確かめなければならないくらい自分の全能感に疑いを持っていたってことになる。モンは元々その全能感には疑いを持っていなかったわけで、じゃあなんでわざわざ「殺す」・・・?無軌道な殺人っていうのは殺すための殺人じゃない。殺人のための殺人って、すんごく拘束されてることじゃないかって。

◇『TWIM』つながりで『檸檬』を読み返す。前読んだときはぜんっぜん意味わかんなかったけど、今回はちょっとわかったかも。主人公にとってレモンは、香り・形状・色・手触り(・そしておそらく文字としての「檸檬」)などその存在全てが自分を落ち着かせるもので、孤独の持つ疎外感を薄めてくれる。でも疎外感を薄める存在=全能感を加速させる存在でもあって、だから主人公は爆弾であることを想像して楽しんだってことか。それにしても、すんごくフィジカルな作品だと思った。

◇『アラザル』がなんだかすごいことになってるらしい・・・。
 相変わらず力入れるところを間違えてる僕・・・w。みんなすごくなっても僕のこと忘れないでねww

◇最近、「泣いた」って表現を文章で書くのはやめようと思ってる。なんかそれじゃ表現できてないじゃ〜んって思うだけじゃなくて、自分がいま泣いてるのは、僕がその作品に何かを読み取ったからに違いないのに、「泣いてしまった」とか書くと、なぜだかわからないけど、作品自体が真実的な何かを持っていて、その力によって僕が泣かされてしまってる感じがする。おかしなことに。
 でも不思議だけれど、「笑う」っていうのはちょっと違う。そこに自分が何かを読み取って笑っているっていうのがもともと前提になってる気がする。「泣く」ってなんか原因がイイ話だったり感動的なものだったりして、ちょっと美しい。けど「笑う」っていうのは原因がほんっとにくだらないことだったりしょうもないことだったりするからじゃないかなって思ってんだけど。どうだろうね。

*1:もともとマスメディアがそういうことをやっていたけれど、質の低下したマスメディアに対してネットがそういう監視機能を担った。そのネットに対する監視機能が、今はない状態だったりすると思う

*2:・・・いまどきヴィレッジバンガードはないかw。まあなんでもいいや。文化系っぽい映画とかw?