web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前11時。バッタのジャンプを追いかける。

◇やっとのことで捕まえて、娘に見せようと手を開いた瞬間、やっぱりバッタは手のひらから逃げてしまった。娘はバッタをハッパと呼び、しばらくその辺を探し回っては別の葉っぱをちぎっていた。

◇こういうとき、娘はあまり物怖じしない。同じ年の頃、息子は大抵、私の後ろに隠れようとしたものだった。そして私も元来、虫や魚を素手でつかむのができない方なのだが、子どもたちと遊ぶうちに、いつのまにか抵抗なくつかめるようになっているのに気付いた。

◇近所の用水路にザリガニが出没し始めた。夜になるとカエルの合唱は聞こえるけど、オタマジャクシはまだ見当たらない。そろそろ水遊びが気持ちいい季節。

多摩川沿いに住んでいるにもかかわらず、これまであまり川で遊んでこなかった。私の住んでいる地域周辺の川は水質が良く、鮎やうなぎを釣って食べている人も結構いるらしい。物好きな人は、オイカワやウグイなどのハヤや、モロコ、カジカなども食べているようだ。それを知ってから、急激に川釣りがしたくなった。

◇日曜日、いつも通り京王線途中下車の旅で多摩センターに行った後、私と子どもたちの三人は休む間もなく近所の浅川へ遊びに行った。
 浅川は、八王子から日野へと流れる川で、私の家のすぐ近所で多摩川と落ち合う。数日前に息子とピアノの習い事帰りに発見したちょうどいい浅トロがあったので、そこの近くでプライベートビーチもしくは秘密基地っぽい雰囲気を楽しみながら水遊びをした。ついでに釣り糸を垂らして遊んでいると、小さなオイカワが釣れた。少し遠く、下流の方に目をやると、ぴちぴちとライズしている様子が見える。
 いくら浅いトロ場とはいえ、兄妹のそばを離れるわけにはいかないので、残念ながらオイカワのポイントに行くのは見送る。結局釣れたのはその1尾だけで、リリースするか迷っていると、息子が遠慮がちに小さな声で「連れて帰りたいな」と言う。あまりものを欲しがったりすることのない息子だが、どうしてもというときは、たまにこうして“遠慮がち”に“小さな声”で希望を伝えてくる。小さなオイカワを丁寧に連れて帰って、家で留守番している妻に自慢した。あとそれから、食べることにした。

◇私がオイカワを絞めたり内臓を抜いたりしていると、息子は、生きた魚を見るのも、調理して食べるのもはじめてだとしきりに話し、おっかなびっくり見ていた。生きた魚を見るのははじめてではないはずだが、おそらく水族館だとかペットショップだとか生け簀だとかにいる魚と、川から釣ってきた魚というのは、感覚的にかなり違うということなのだろう。
 果たして6センチほどの小さなオイカワは、片栗粉をつけて揚げたためにめちゃくちゃ小さくなり、それをさらに家族4人で分けることになった。ただ、それでも淡白な川魚の味がして、とてもおいしかった。
 ここに住んでからそれなりの時間が経つわけだけれども、この場所に住んでいる実感がようやく沸いてきた。

◇翌日の月曜日。オイカワのポイントをみすみす見送ったのが悔しくて、仕事前に少し釣りに出た。
 鮎の解禁直後だからだろう、平日にもかかわらず釣り人の姿が結構あった。自分は安い万能竿で、1時間弱でオイカワ9尾+小さなカワムツ1尾。なかなかいい感じだった。絞めて、冷凍保存だけしてから仕事に出た。
 仕事も打ち合わせ一本だけ終えたら早々に切り上げ、夕食に間に合うように帰宅した。冷凍庫から取り出して自然解凍したオイカワを調理したが、やっぱり獲れたての方が処理しやすかった。カワムツかと思ったのは実はオイカワだったかもしれないが、正直揚げてしまうと全然わからない。おいしいはおいしいけれど、もう少し調理のバリエーションがほしい。いろいろ挑戦してみようと思う。

◇先日、ONE MEKONG MEETING VOL.1というトークイベントに行ってきた。stillichimiyaのYoung-Gがタイを歩きながら発見したアジアのヒップホップを中心に、MMM、空族のふたり、Soi48のふたりを交えてこの辺の現代ダンスミュージックを紹介するというもの。wi-fiが強い環境下では、youtubeが音源チェックのインフラとして確立して、ミュージシャンたちはライヴで稼ぐという。チャンス・ザ・ラッパー方式がやっぱり健全なんだろうなと思う一方で、とするならば、いわゆる音源制作というものにはビデオ制作という側面が強くなってくるのだろうとも思った。コンサートホールの誕生からレコードに至る流れは、雑多な情報のなかから音のみを取り出す情熱によって成り立っていたわけだが、youtube以降は映像と不可分な音楽の領域が、再び力を強めている。もちろんゴダールについて考えた方がいい気はするけれど、その前に、なんとなく『家族ゲーム』の方を考えなければならない気がしてきた。

◇ONE MEKONG MEETINGで知ったやつ。YBg - ให้โอกาส (Official Music Video)。全体的にDRAMのBroccoliにも似てる。かなりイマドキ感があるとともに、sushiboysとの共通点も。


午後1時。ひげをぶつける。

◇お昼寝をしに寝室に行った娘が、なにやらあごをぶつけて泣いている。どこが痛いの?と妻に聞かれて、不機嫌そうな声で「ひげ」と答えていた。

◇ブログが滞り過ぎ。書き留めなければどんどん忘れてしまう。

◇昨年末辺りからぶらり途中下車な感じで商店街散策に行っている。久々の旅で、今週は桜上水に行ってきた。レギュラーメンバーがひとり欠席して、息子と娘と私の3人チーム。
 息子は店に入るでもなく、ひたすら商店街を歩くのが好きなようで、今回は「八王子ではなく新宿方面で」「しかし笹塚や明大前といった特急・準特急停車駅ではないところで」といったオーダーがあった。前に代田橋に行ったことがあり、そのとき私たち両親はあまり楽しめなかったが、息子は結構楽しかったようだ。今回の桜上水は、代田橋に似て駅から少し出ると国道と高速道路が走っている。そのとき気づいたが、息子は商店街が好きというよりも、駅によって異なる表情を見せる「駅前」が好きらしい。
 私は私で、最近、街中のタグを見つけて写真に集めていて、桜上水は結構よかった。ひとつ、デザインとしてはほとんど凝ったところのない書き文字のタグがあって、それを写真に撮っている私を見ながら、これはなんだかほかのやつとはちょっと違う感じがする、と息子が言う。
 ひたすらタグを探して歩く私と、駅前を散歩する息子の後をついて、娘はニコニコと歩いていた。歩きながら、ずーっとしゃべり続けている。散歩をしながらおしゃべりをする姿は、これはもうひとつの完成形なのだろうなあと思う。

キャスリン・ビグローデトロイト』。がっつりビグロー印ではあるんだけど、“ソウルパワー”がはみ出てしまっていて、これまでのビグロー作品とは違った感触が残る。

◇言ってしまえば、ビグローのどこまでも醒めた視点とソウルミュージックの力強さの対決がこの作品の中心的なやり取りになっていて、ここにはビグローの白旗も、ソウルミュージックの白旗も同時に描かれていたと思う。
 これまでお仕事人間ばかり描いてきたキャスリン・ビグローの作品らしく、今回もやっぱりお仕事人間としてのソウルシンガーが出てくる。
 いわゆるワークソングから派生したとされるソウルミュージックにとって、コールアンドレスポンスは重要な要素だが、そこに照らして考えるならば、このソウルシンガーは常にコールしかできない。レスポンスを常に待ち続けるソウルシンガーだ。

◇現実につぶされないための歌声は、ある種の力強さをたたえるけれども、ひっくり返せば無力感をも漂わせてしまう。劇中しょっちゅう鳴り響く「リバーヴのかかりまくったモータウンサウンド」に象徴的だが、つまりソウルパワーの無力を暴くことが、この作品の一種の狙いになっている。
 ラストのゴスペルシーンにおいては、レスポンスという(神の)声を待つためにこそ、コールとしての歌声を響かせるべき、みたいな結論を提出したようにすら見える。あるいはラストから連なるエンドロールの前半までは、ゴスペルからヒップホップの連続を示すようにTHE ROOTS『It Ain't Fair』がかかるのだが、後半、作品のミュージッククレジットを流す段になると、不協和音やドローンが多用される音楽に変わり、そのままエンドロールも終わっていく。ベタに言いたくはないが、それは「音楽は無力だ」的な指摘に近い。
 音楽は僅かな抵抗としてしか機能できないかもしれないし、かといってそれはもちろん素晴らしく気高い決意でもあるのだけれど、それじゃああまりにもあんまりだと言いたくなるような現実が、この作品ではがっつり描かれている。

◇過去のビグロー作品を引くならば、例えば『K19』で描かれた「酒を酌み交わすシーン」が、一見デトロイトソウルミュージックに対応しているようにも見える。赤ワインの乾杯も、ウォッカ献杯も、どうにもならない現実に「我々は酒を飲むしかない」的な。
 確かにその意味では、それを真っ向からがっつり指摘された時点で、そして、50年前のアルジェ・モーテル事件から現在まで、それがそっくりそのまま、全く変わっていないという時点で、ソウルミュージックの白旗が描かれているとは思う。けれど、ソウルミュージックの力強さが、作品内から突き抜ける瞬間も、実はちゃんと描かれている。
 ソウルシンガーの歌声が普通に評価される瞬間が、二回ある。一回目は、女の子をナンパするシーン。もう一回目は、取り調べ中の祈りのシーン。
 いずれも、その歌声のなかに「真実」を聴き取る人物が描かれていて、劇中、数少ないコールアンドレスポンスが成立した瞬間になる。それを安易な感動に落とし込むどころか、一種の皮肉として配置する演出はさすがだけれど、あれはやっぱり驚異的な瞬間が描かれているのではないか。
 このふたつが対比されながら描かれているだけでも、現実的な抵抗としての音楽の可能性が示されていると思う。

The Roots -- It Ain’t Fair (feat. Bilal)

ECDが亡くなって、FEBBの訃報が届く。個人的にも、つい最近知り合ったばかりの人が亡くなったりするなど、なんだかすべてが早過ぎる。2018年。

午後6時。ごはんどきのしりとり。

◇息子が食事よりもしりとりに夢中になっていると、娘も一生懸命ゲームに入ってくる。ルールを理解しているわけではないので、とにかく自分が今言いたい単語を羅列しているようだった。あるいはそういうルールだと理解したのかもしれない。

◇娘は頭文字一文字だけで会話を成り立たせる。朝の支度がなかなか進まない息子に早くしなさいと急かすと、娘も、「に、は」と言う。兄もそれが「にいにい、はやく」と話しているのだと理解しているから「わかった」とか、あるいはばつが悪くて「しずかにしなさい」と答えたりする。
 どうしても上の子と比較してしまうのだが、息子のときはここまで会話が成り立っていなかったと思う。いや、おそらくこちらが話していることも理解しているし、息子が伝えたいことも伝えていたのだが、それは意図の伝達という目的がはっきりと前に出ていた。しかし娘の場合、会話のやり取りそのものを楽しんでいるように見える。娘の要求にこちらが沿えないときに、それを伝えると物分かりよく納得してくれるというのも、つまりそういうことなのだろう。こういうのは「女の子らしい」のか、それとも「下の子らしい」のか。

◇お気に入りのスーパーにいくという話になると、娘は必ずドキンちゃんの赤いポーチと猫の柄の赤いバッグを持ち、ミニーちゃんの尻尾を掴んで玄関に向かう。外出とおめかしをセットで捉えるという感覚がすでにあることに驚く。これはやはり「女の子らしい」のだろうか。

◇兄の方はというと、プラレールを器用につないで回転寿司レーンを作っている。近所の回転寿司店が閉店して以来、クレヨンと折り紙とセロテープを使って握り寿司を用意し、回転寿司の再現に熱中している。入店時にタッチパネル(もちろんこれも自作)の使い方を案内し、こちらの注文に合わせて寿司を流し、割引券やおもちゃのガチャガチャが当たるルーレットも回して、忙しそうに立ち回っている。娘と私は常連で、いつもあじとつぶ貝ばかり頼み、そしてほとんどいつも当たりくじを引く。
 いつも習い事で進級があるたびに回転寿司に行っていたのだが、次回からどこへ行けばいいだろうと、妻とふたり、子供が寝静まってから話した。

◇先週は久々に高熱に悩まされ、今もまだなんとなく胃がすっきりしない。アラザルの締め切りは過ぎている。仕事はまた来週から忙しくなるので、今週中になんとかしなければならない。

◇PSG現る。

◇少し前、BADHOPのラジオで出てきた「内なるJ」というフレーズがクリティカルで、日本語ラップヘッズたちはかなり楽しんでそのことを話題にした。J-pop的要素の強いラインが出てきてしまったとき、彼らは「内なるJが出ている」と指摘し合って審級するのだそうだ。
 この「J」が彼らの言う通りジャパンの「J」であれば、これは日本語ラップが孕む問題に終始する。もちろんそれは大前提なのだが、もうひとつ、この「内なるJ」の「J」というのは、「J-pop」などに表象される「ジャパン」であるだけでなく、「自分」とか「自己」の頭文字なのではないかと思ったりする。彼らが「内なるJが出てる」と言ってダメ出しをするとき、例えば自己陶酔の度合を強くし過ぎてトラックを無視してしまうような、自分という身体への意識を失う状態を避けているのかもしれない。「内なるJ」に支配されてしまう状態。
 日本語ラップは、日本と現代と美術の間に中黒を打たなければならないという、あの「悪い場所」という問題を必ず扱う。だからもちろん、今回の「内なるJ」を試しに「悪い場所」に置き換えて語ることは可能だろう。ただそれは日本で起こる表現のすべてにつきまとっている問題であり、日本語ラップはそのサンプルとしてよく機能するということに過ぎない。日本語ラップそのものを語るためには、やっぱり日本語「ラップ」のことも同時に考える必要がある。トラックという外在的な時間をどう自分の時間とするのか、というラッパーの意識に則して考えることで、ようやくそこに音楽と生活の問題を見出すことができるだろう。ラッパーの倫理は時間をどのように意識するか、というところにある。USラップを、影として日本に迫るアメリカとして見るだけではなく、自分の身体を忘却したいという欲求をあぶりだすための試金石として機能させることもできるはずだ。

◇トラックが要らないというのなら、それはラップであることをやめるだろう。当たり前だが、ラップをすることだけが、ラッパーをラッパーたらしめる。

◇BADHOPが「内なるJ出てるよ」と言い出したのと同様、かつて「チャックを上げなよ お前がはみ出てるよ」と指摘したのはPUNPEEだった。初のソロ作となる『MODERN TIMES』はまさに、自分と自分を取り巻く時間の間にどのような関係を切り結ぶかを考えた作品だと思う。ラッパーにとってのトラック論/トラックメイカーにとってのラップ論である。
 SOULSCREAMが1999年にイメージした『2018』を引き合いに出しながら、2017年に想像/創造する『2057』を考えることで、日本語ラップそのものの変化を語ることはできるだろう。しかし、『2018』を語る視点が今から未来を眺めるものであったのに対し、『MODERN TIMES』はそれを聴いている今を過去のものにしようとする、という違いに着目すると、それは日本語ラップの問題から、ラップミュージックの問題へと射程を広げることができる。

◇『MODERN TIMES』は思いっきり「自分がはみ出ている」作品だともいえるし、というか、はみ出る自分をどう扱うか、どういう時間の中に置くか、というのが極めて明瞭な作品だと思う。その意味においては「はみ出ている」という、さも自分では気づいていないような表現は適切ではなく、意図的に「はみ出させている」と言った方がいい。
(いつかつづく)

午後2時。なかなかブランコの止まらない。

◇娘がいつのまにかブランコを漕ぐようになっていた。座ったまま足を使わず、揺れるリズムに合わせて、体重移動だけで漕いでいる。メトロノームのように一定のリズムだ。

911は我が家では息子の誕生日であり、私と妻が親になった日のことである。

◇1歳8カ月を過ぎて、娘はなんだかおしゃれに気を遣う。洋服のコーディネイトや小物はもちろん、おむつの柄にもこだわりがあるようだ。おしゃれは見えないところからということだろうか。

◇先日は私のライヴがあり、そのちょうど一週間前には息子のピアノの発表会があった。
 もともと緊張しまくるはずの私が、14年ぶりのライヴでもそこまで緊張しなかったのは、先週の息子の様子を見ていたせいかもしれない。失敗を嫌がる傾向のあった息子が、なぜだかここ最近、やたらと思い切りがいい。舞台袖まで付き添ったが、リラックスし過ぎていてこちらが心配になるほどだった。出来はまあ、リハのときよりもテンポが遅くなってしまったというのはあったが、本番でも小声で歌いながら演奏していたし、練習とさほど変わりない様子で淡々とこなしていた。
 わからないことがわかるようになる、できないことができるようになるという感覚を覚えてくれているのであれば、これほどうれしいことはないと思う。私がそれを自覚できるようになったのは、本当につい最近の話だ。

◇9月9日は、なんだかアラザルメンバーが活発になる日だそうで。昨年はアラザル山本浩生の個展があり、今年は諸根陽介のライヴと杉森大輔&私のライヴが思いっきり被っていた。来年は何かあるのだろうか。
 というわけで先日のライヴは大変楽しめた。杉森さんが誘ってくれたこのジャズバンドという形式が、おそらくちょうどいい感じにしてくれたんだと思う。流行りに乗らなきゃいけないというヒップホップゲームの外だというのも大きい。ただ、さすがにもう少しはラップうまくなりたい。

◇個人的には、ゆるふわギャングと唾奇はきれいなコントラストを描いていると思う。ゆるふわギャングが素晴らしいのは疑いようもない事実だが、最近は唾奇とsweet williamのコンビに持っていかれている。90年代からの接続を感じているのだと思う。

◇リアルとフェイクは表裏の関係にあるというよりも、同一線上にある場合も少なくない。ヒップホップにおいては、フェイクはリアルに先行してコンセプトだけを提示している状態でもある。いわばプレ・リアルとしてフェイクがあり、そのあとには必ずリアルな奴らが現れる。
 リアルを「本物」と訳した場合はそういうことになるが、「現実」と訳す場合、対比されるフィクションというのはどういうものなんだろうか。フィクションは、いうまでもなく現実の映し方でしかない。いかなる現実も、フィクションを通さない限り提示できない。こうした理解においては、ドキュメンタリ/ノンフィクションは広義のフィクションに含まれるということになるわけだが、個人的にはそれで問題ないと思っている。
 「本当のこと」はフィクションを通じて描かれる。その意味においては、コンセプト重視のフェイク野郎であっても「本当のこと」を語ることは可能だし、反対に実体験を語るはずのリアルなやつらが「本当のこと」を歪曲してしまうことだって可能である。

◇そして私には、ポスト・トゥルースというのがいまいちよくわからない。

◇今年の日本語ラップは大豊作だけども、これはたまらなくいい。

「童貞。をプロデュースの現実」vs.「加賀賢三氏の現実」はあり得ない

◇『童貞。をプロデュース』の舞台挨拶で、松江哲明監督に童貞1号役を演じた加賀賢三さんが告発をしたらしい。いつ削除されるかもわからないけれど、とりあえず現時点ではyoutubeでその様子が確認できる。

◇たしか下北沢のシネマアートンだったろうか。加賀さんが出演した第一作の『童貞。をプロデュース』を観て、そのいくらか後に梅沢さんを主人公にした『童貞。をプロデュース2』も観て、それから10年前の池袋シネマロサで現在の編集版『童貞。をプロデュース』を2回観たと思う。それから当時、この作品に関するブログや記事も結構読んでいたと思う。それだけこの作品は当時の、そして今の、私に重要な問題意識を残したということである。
 その辺りは、アラザル1号目『古谷実論』と2号目『童貞論』にまとめてあって、基本的な考え方はそこに詰まっているんじゃないかと思う。再読してないのでわからないが。
 まあそれはいいとして、今回は童貞的自意識の話とかよりも、先日の一件によって、ドキュメンタリが提出する現実について思いをはせることになった。というのも、『童貞。をプロデュース』が提出した問題のなかで、当時の私は童貞考察の部分しか考えていなかったのを思い出した。これは必ずしも『童貞。をプロデュース』に限った話ではないが、『あんにょんキムチ』からずっと、松江監督は確固たるドキュメンタリ論を展開していると考えられるからである。今回の騒動は、まさにその論に基づいた作品づくりの結果でもあるからだ。
 ちなみに、私は舞台挨拶には行くつもりはなかったが、今回の上映期間中に再観賞するつもりではあった。個人的には残念だが、仕方がないことでもあるし、今後の展開に期待する方向で考えたい。

◇『童貞。をプロデュース』、および今回の一件を考えるにあたって、前提として踏まえておかなければならないことがある。森達也ドキュメンタリーは嘘をつく』の主題である。
 松江監督はデビュー作である『あんにょんキムチ』から今まで、この『ドキュ嘘』で語られるようなことを念頭に置きながら、ドキュメンタリ作品をつくり続けていると思う。
 『ドキュ嘘』が否定するのは、「フィクションとは違ってドキュメンタリは、実際に起きている現実をそのまま映すものである。だからそれは真実を映す鏡であるに違いない」という素朴で純情な認識だ。しかしそれを否定するからといって、ドキュメンタリは「嘘である」と言い切るわけでもない。そこに映った事実の一側面を浮かび上がらせるのがドキュメンタリなのであって、だからこの作品のタイトルは、「嘘をつく」に留まる。つまり嘘は悪ではない。嘘はどうしても映り込むだろうし、あるいは積極的に嘘を投入していくことで事実を浮かび上がらせることもできるのである。

◇その意味でいえば、ドキュメンタリはフィクションのいちジャンルであると考えることも可能だろう。ただ、ドキュメンタリの場合は、作品を構成する素材が現実に存在しているものである。私たちが生活を営むこの世界と地続きのものである。まさにそれが、今回のような一件を引き起こしやすくなる要因ではある。

◇いくらドキュメンタリといえども、作品として、つまり一個の完結した世界を作る以上は、それは作品内世界に閉じる。そこで描かれる世界にアクセスするためには、観賞という手段しかない。制作者であれ、出演者であれ、ひとつの作品がすでに出来上がった以上は、全ての人間は観賞という形でしか作品の世界に接触することはできない。もちろん、ドキュメンタリの場合はその作品に登場する人物も、扱われる事件も実在するし、だからそれら作品の構成素材自体に直接接触することはできるはずだ。しかし、結果的に作品に描かれる世界には、その作品の「鑑賞」なくしては触れることができない。フィクションのいちジャンルであるというのはそういう意味だ。
 だから「観賞」は、当事者としてその作品の世界に飛び込む行為となる。観賞という行為を介すことによって、作品に描かれる世界は「現実」となる。作り話である小説に心打たれるのは、それが現実として鑑賞者に迫るからだ。
 基本的に観賞は、安全圏から他人事のように眺めるということではない。鑑賞者は常に集中力を持って当事者性を持つ努力を強いられるし、あるいは他人事として鑑賞されることを想定して作られる作品は、一般的に駄作とされる。

◇『童貞。をプロデュース』は、加賀氏が糾弾する例のシーンも、前編最後の突き刺さるようにまっすぐカメラを見つめる女の子の目線も、後編の梅ちゃんのスクラップ制作過程も、監督した映像作品も、あらゆる場面に痛みが満ちていた。鑑賞者はまさに当事者としてこれらの出来事を体験することになる。
 作品の力のみによって鑑賞者に当事者性を持たせることができるという意味で、これは優れたドキュメンタリだったと思う。そしてもちろん、それは優れたフィクションであることをも意味している。しかし当然のことながら、観賞という行為を介さない限りアクセスできない現実であり、ビデオカメラなくしては立ち上がらない現実である。だから、松江哲明のビデオカメラがないまま、この作品内で起きた出来事を眺めたら、それは『童貞。をプロデュース』に描かれた世界を作らないし、また別種の現実が起きているはずだ。
 松江監督のビデオカメラなしで、同じ出来事を目撃・体験したのが、加賀賢三氏であるのは言うまでもない。

◇今回の舞台挨拶上の告発は、『童貞。をプロデュース』という「作品が提出する現実」と「加賀賢三の現実」が激しく衝突した例となった。

◇ここで重要なのは、これが作品上映後の舞台挨拶という極めてあいまいな場で行われたことだった。その場に居合わせる人はおそらく、作品の延長線上の人物として彼らを捉えることになるだろう。ドキュメンタリはフィクションではあるが、私たちが暮らすこの世界のうえに「別の世界」を作りあげる類のフィクションだからだ。しかし、フィクションの宿命である「作品の提示する世界には、観賞以外にアクセスする手段はない」に則て考えるならば、舞台挨拶の場で起きることは、作品のある位相とはズレた、また別の現実である。上映後の舞台にドキュメンタリの出演者があがるということ自体、こうした極めてあいまいな場を用意する。
 加賀さんとのやり取りのなかで、松江監督が放った「俺は今この場ではそういう話はしない」という発言は、観賞以外の方法で、作品の外から『童貞。をプロデュース』の世界に触れることへの拒否だったのだと思う。それは作家としては当然の態度だろう。

◇その視点に則るならば、実際に強要があったか否か、実際に傷ついた人がいるのか否か、というのは確かに作品とは無関係の話になる。ただ、とはいえ松江監督や加賀さんの人間関係や社会生活上の問題としては、それは大問題であり、監督としてではなく、人間としてどうこの問題に接するのかという問題は突きつけられて然るべきだろう。
 つまり「加賀賢三の現実」と「童貞。をプロデュースの現実」の勝負にはなり得ない。「加賀賢三の現実」が、事実としてどうだったのかを重視するならば、それは「松江哲明の現実」と「加賀賢三の現実」の戦いに過ぎない。そちらの方は事実の検証なり法廷闘争なりで戦うことになるだろうが、加賀さんがもしも「童貞。をプロデュースの現実」と戦うのならば、加賀さんはなんらかの形で作品を作らなければならないのである。
 そしてそう考えると、舞台挨拶上で引き起こされたあの一連の騒動そのものが、「加賀さんが作品として提出した現実」なのではないか、と思えてくる。つまり、上映後の余韻が残る状態――童貞1号という役がうっすらまとわりついている状態から、それとはまったく違う現実を提示して見せることに、あの場に居合わせた人はまずショックを受けるだろう。ただ、そのショックは、『童貞。をプロデュース』という映像作品の強さの証明でもあることは考えておかなければいけない。

◇ところで、この話と直接関係ないところで個人的に気になるのは、上映後の舞台挨拶というのは作品の延長線上にあるだろうか、ということ。上に述べたように、もちろん原理的には延長でもなんでもなく、別モノではある。そうではなく、感覚的に、延長線上に感じるような実感が、いま、どれだけの人に共有されるだろうか、ということ。
 言い換えれば、これは松江監督があの物語をどこまでリアルガチだと思わせたかったのかという話だし、『童貞。をプロデュース』がなぜドキュメンタリとして制作されなければならなかったのかという話でもある。おそらくは、ドキュメンタリの文法を駆使するのに長けているから、というのが実制作上の理由だろう。その手法を徹底的に駆使することでしか立ち上がらない世界ではある、たしかに。ただ、私が気になるのはむしろ、ドキュメンタリの手法を用いることで、あの作品がこれだけのプロップスを集めたという、その現象が気になるのである。
 そしてこれはなんとなくなのだが、おそらくSNS的な感性と無関係ではないと思う。『童貞。をプロデュース』制作時期に照らせば、web2.0とか言った方がいいんだろうけれども。
 つまり、当事者意識の話だ。


※上記記事は以下ブログより抜粋。
2017-08-27 - 日々:文音体触 〜compose&contact〜

午後5時。風の温度。

多摩動物園を歩き回っても、汗がすぐにひく。

◇もうずいぶん暑さも和らいだ。ふだん暑い暑い言ってるくせに、あんまり暑くない日が続くと、もう夏が終わるんじゃないかと焦り始める。今年は8月に入って以降、ずっとそんな感じだった。ほんとにもう、そうこうしているうちに夏が終わる。

◇息子と娘が糸電話で遊んでいた。お互いに紙コップを口に当て、発信するばかり。

◇今年は資金難から仕事を詰め込まなければならず、8月は普段よりも忙しい月になってしまった。毎年恒例の諏訪湖の花火大会にも行けずじまいだし、おたまじゃくしを捕まえることもできなかった。
 今年は幼稚園が8月最終週から始まると聞いて、慌ててざりがに釣りをしたり、風呂に迷い込んできたカエルを捕まえて記念撮影をしたりした。幼稚園からもらってきた稲を、妻と息子が育ててくれたりして、大変助かったのだが、問題は遠出だった。大宮の鉄道博物館や四谷の消防博物館、そして本日の動物園でタイムアップだった。ちょうど校了や締め切りと重なって大変だったが、まだまだやりたいことはたくさんある。

◇娘はあまり不機嫌にならない。というか、不機嫌であったり、気に入らないことがあっても、あまり長引かずに割とすぐ機嫌が直る。ベビーカーに座るのが嫌だといって不平を連ねているときも、トーマスのラムネを持たせてテーマソングを口ずさめば、大体素直にベビーカーに収まってしまう。こういうことは息子のときは考えられなかった。息子はどんなごまかしも効かず、徹底的に自分の意見を貫くタイプであった。
 そんなことを動物園からの帰り道、娘のベビーカーを押しながら妻が話すと、息子もニコニコしながら聴いている。「ぜんぜん泣き止まなかったんでしょ?」と上機嫌に話す様子に、心強さとさみしさを覚えて、妻とふたり、感慨にふけってしまった。

◇しかし空手にいくと、最年少らしい間違いをするので、まだまださみしさを感じなくて済む。組み手の相手がなぜか途中で入れ替わってしまうのが不思議だ。

アラザル杉森さんのバンドで、次のライブでゲスト枠でラップをする。練習中に段々欲を掻いてきて、手堅いこと意外にチャレンジしたいこともでてきてしまうのだが、手堅いと思っていたことすら全然できていないので、まずはこの課題を解決することがチャレンジになってしまう。かちっとしたタイトなラップは、しかしよく考えると一番表情つけるのが難しいやつかもしれない。

◇Ultramagnetic MC's - Poppa Large

◇ドキュメンタルも第3シーズンだが、今回、山本がものすごく不思議なポジションを築いていて感動してしまう。攻撃や防御といった構造の外に、軽々と出てしまっているのがすごい。もちろん、天然あってのことだろうし、松本の解説ツッコミがなければ笑いとしては若干わかりづらかったのだろうけれども。しかし早々と二つペナルティを食らってからここまで残るというのにも、何か底知れなさを感じてしまう。
 次回が最終回だが、とても楽しみ。でもゾンビシステムで全滅なのかな、と予想するけれども。

◇『童貞。をプロデュース』の舞台挨拶で、松江哲明監督に出演者の童貞1号役で出演した加賀賢三さんが告発をしたらしい。いつ削除されるかもわからないけれど、とりあえず現時点ではyoutubeでその様子が確認できる。
 たしか下北沢のシネマアートンだったろうか。加賀さんが出演した第一作の『童貞。をプロデュース』を観て、そのいくらか後に梅沢さんを主人公にした『童貞。をプロデュース2』も観て、それから10年前の池袋シネマロサで現在の編集版『童貞。をプロデュース』を2回観たと思う。それから当時、この作品に関するブログや記事も結構読んでいたと思う。それだけこの作品は当時の、そして今の、私に重要な問題意識を残したということである。
 その辺りは、アラザル1号目『古谷実論』と2号目『童貞論』にまとめてあって、基本的な考え方はそこに詰まっているんじゃないかと思う。再読してないのでわからないが。
 まあそれはいいとして、今回は童貞的自意識の話とかよりも、先日の一件によって、ドキュメンタリが提出する現実について思いをはせることになった。というのも、『童貞。をプロデュース』が提出した問題のなかで、当時の私は童貞考察の部分しか考えていなかったのを思い出した。これは必ずしも『童貞。をプロデュース』に限った話ではないが、『あんにょんキムチ』からずっと、松江監督は確固たるドキュメンタリ論を展開していると考えられるからである。今回の騒動は、まさにその論に基づいた作品づくりの結果でもあるからだ。
 ちなみに、私は舞台挨拶には行くつもりはなかったが、今回の上映期間中に再観賞するつもりではあった。個人的には残念だが、仕方がないことでもあるし、今後の展開に期待する方向で考えたい。

◇『童貞。をプロデュース』、および今回の一件を考えるにあたって、前提として踏まえておかなければならないことがある。森達也ドキュメンタリーは嘘をつく』の主題である。
 松江監督はデビュー作である『あんにょんキムチ』から今まで、この『ドキュ嘘』で語られるようなことを念頭に置きながら、ドキュメンタリ作品をつくり続けていると思う。
 『ドキュ嘘』が否定するのは、「フィクションとは違ってドキュメンタリは、実際に起きている現実をそのまま映すものである。だからそれは真実を映す鏡であるに違いない」という素朴で純情な認識だ。しかしそれを否定するからといって、ドキュメンタリは「嘘である」と言い切るわけでもない。そこに映った事実の一側面を浮かび上がらせるのがドキュメンタリなのであって、だからこの作品のタイトルは、「嘘をつく」に留まる。つまり嘘は悪ではない。嘘はどうしても映り込むだろうし、あるいは積極的に嘘を投入していくことで事実を浮かび上がらせることもできるのである。

◇その意味でいえば、ドキュメンタリはフィクションのいちジャンルであると考えることも可能だろう。ただ、ドキュメンタリの場合は、作品を構成する素材が現実に存在しているものである。私たちが生活を営むこの世界と地続きのものである。まさにそれが、今回のような一件を引き起こしやすくなる要因ではある。

◇いくらドキュメンタリといえども、作品として、つまり一個の完結した世界を作る以上は、それは作品内世界に閉じる。そこで描かれる世界にアクセスするためには、観賞という手段しかない。制作者であれ、出演者であれ、ひとつの作品がすでに出来上がった以上は、全ての人間は観賞という形でしか作品の世界に接触することはできない。もちろん、ドキュメンタリの場合はその作品に登場する人物も、扱われる事件も実在するし、だからそれら作品の構成素材自体に直接接触することはできるはずだ。しかし、結果的に作品に描かれる世界には、その作品の「鑑賞」なくしては触れることができない。フィクションのいちジャンルであるというのはそういう意味だ。
 だから「観賞」は、当事者としてその作品の世界に飛び込む行為となる。観賞という行為を介すことによって、作品に描かれる世界は「現実」となる。作り話である小説に心打たれるのは、それが現実として鑑賞者に迫るからだ。
 基本的に観賞は、安全圏から他人事のように眺めるということではない。鑑賞者は常に集中力を持って当事者性を持つ努力を強いられるし、あるいは他人事として鑑賞されることを想定して作られる作品は、一般的に駄作とされる。

◇『童貞。をプロデュース』は、加賀氏が糾弾するあのシーンも、前編最後の突き刺さるようにまっすぐカメラを見つめる女の子の目線も、後編の梅ちゃんのスクラップ制作過程も、監督した映像作品も、あらゆる場面に痛みが満ちていた。。鑑賞者はまさに当事者としてこれらの出来事を体験することになる。
 作品の力のみによって鑑賞者に当事者性を持たせることができるという意味で、これは優れたドキュメンタリだったと思う。そしてもちろん、それは優れたフィクションであることをも意味している。しかし当然のことながら、観賞という行為を介さない限りアクセスできない現実であり、ビデオカメラなくしては立ち上がらない現実である。だから、松江哲明のビデオカメラがないまま、この作品内で起きた出来事を眺めたら、それは『童貞。をプロデュース』に描かれた世界を作らないし、また別種の現実が起きているはずだ。
 松江監督のビデオカメラなしで、同じ出来事を目撃・体験したのが、加賀賢三氏であるのは言うまでもない。

◇今回の舞台挨拶上の告発は、『童貞。をプロデュース』という「作品が提出する現実」と「加賀賢三の現実」が激しく衝突した例となった。

◇ここで重要なのは、これが作品上映後の舞台挨拶という極めてあいまいな場で行われたことだった。その場に居合わせる人はおそらく、作品の延長線上の人物として彼らを捉えることになるだろう。ドキュメンタリはフィクションではあるが、私たちが暮らすこの世界のうえに「別の世界」を作りあげる類のフィクションだからだ。しかし、フィクションの宿命である「作品の提示する世界には、観賞以外にアクセスする手段はない」に則て考えるならば、舞台挨拶の場で起きることは、作品のある位相とはズレた、また別の現実である。上映後の舞台にドキュメンタリの出演者があがるということ自体、こうした極めてあいまいな場を用意する。
 加賀さんとのやり取りのなかで、松江監督が放った「俺は今この場ではそういう話はしない」という発言は、観賞以外の方法で、作品の外から『童貞。をプロデュース』の世界に触れることへの拒否だったのだと思う。それは作家としては当然の態度だろう。

◇その視点に則るならば、実際に強要があったか否か、実際に傷ついた人がいるのか否か、というのは確かに作品とは無関係の話になる。ただ、とはいえ松江監督や加賀さんの人間関係や社会生活上の問題としては、それは大問題であり、監督としてではなく、人間としてどうこの問題に接するのかという問題は突きつけられて然るべきだろう。
 つまり「加賀賢三の現実」と「童貞。をプロデュースの現実」の勝負にはなり得ない。「加賀賢三の現実」が、事実としてどうだったのかを重視するならば、それは「松江哲明の現実」と「加賀賢三の現実」の戦いに過ぎない。そちらの方は事実の検証なり法廷闘争なりで戦うことになるだろうが、加賀さんがもしも「童貞。をプロデュースの現実」と戦うのならば、加賀さんはなんらかの形で作品を作らなければならないのである。
 そしてそう考えると、舞台挨拶上で引き起こされたあの一連の騒動そのものが、「加賀さんが作品として提出した現実」なのではないか、と思えてくる。つまり、上映後の余韻が残る状態――童貞1号という役がうっすらまとわりついている状態から、それとはまったく違う現実を提示して見せることに、あの場に居合わせた人はまずショックを受けるだろう。ただ、そのショックは、『童貞。をプロデュース』という映像作品の強さの証明でもあることは考えておかなければいけない。

◇ところで、この話と直接関係ないところで個人的に気になるのは、上映後の舞台挨拶というのは作品の延長線上にあるだろうか、ということ。上に述べたように、もちろん原理的には延長でもなんでもなく、別モノではある。そうではなく、感覚的に、延長線上に感じるような実感が、いま、どれだけの人に共有されるだろうか、ということ。
 言い換えれば、これは松江監督があの物語をどこまでリアルガチだと思わせたかったのかという話だし、『童貞。をプロデュース』がなぜドキュメンタリとして制作されなければならなかったのかという話でもある。おそらくは、ドキュメンタリの文法を駆使するのに長けているから、というのが実制作上の理由だろう。その手法を徹底的に駆使することでしか立ち上がらない世界ではある、たしかに。ただ、私が気になるのはむしろ、ドキュメンタリの手法を用いることで、あの作品がこれだけのプロップスを集めたという、その現象が気になるのである。
 そしてこれはなんとなくなのだが、おそらくSNS的な感性と無関係ではないと思う。『童貞。をプロデュース』制作時期に照らせば、web2.0とか言った方がいいんだろうけれども。
 つまり、当事者意識の話だ。

日本のヒップホップ・アルバム・ベスト30(選・安東三/2017年版)

ミュージックマガジン6月号『日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100』に参加。同時にgogonyanta氏の『リスナーが選ぶ日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100』にも参加。ともにベスト30を選んで、同じランキングを提出した。
 ミュージックマガジンの方では25位いとうせいこう『MESS/AGE』、38位LowPass『Mirrorz』、47位スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』についてのレビューを、gogonyanta氏の企画の方ではベスト100にランクインした作品についてはすべてコメントしてある。
 個人のブログの方では、自分が選んだ30作品とそれに対する全コメントをメモしておく。一応、ミュージックマガジンのやつとは別の原稿になってます。


◇日本のヒップホップ・アルバム・ベスト30。2017年:安東三提出バージョン。


1.ALPHABETS『なれのはてな
なれのはてな
日本語ラップがすごいことになった!」と思ったら、すごいのはアルファベッツで、その後のヒップホップアーティストへの影響がちょっとよくわからない。しかしとはいえ、この路線を突然変異と捉えてしまうのはやっぱりもったいなくて、ここからの枝葉はまだどんどん伸びていく余地があるんじゃないか。そんなことを期待したくなる名盤。


2.スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』
WILD FANCY ALLIANCE
宮台真治『終わりなき日常を生きろ』は95年だけれども、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件よりも前の段階で「終わりなき日常」を主張したのはこのアルバムだった。というのは後付けだけれども、でも実際そうとしか思えない。そこにはある種の覚悟としての「まったり」があるわけで、『彼方からの手紙』にはその決意に至るまでの道程が読み取れる。「川」が何を指しているのかを考えてみれば、彼らの論理と倫理が明確になるだろう。ちなみに、サンプリング元ネタのジョージ・ベンソン『ブリージン』は、中原昌也の小説『誰が見ても人でなし』にも使用さえていて、そういえばこの短編を収めている書籍タイトルは『ニートピア2010』だったこともメモしておく。


3.GEISHA GIRLS『THE GEISHA GIRLS SHOW ~炎のおっさんアワー~』
THE GEISHA GIRLS SHOW ― 炎のおっさんアワー
ゲイシャガールズなんか入れんな!と怒られてもいいからランキングに入れたかった。松本人志がラップをやろうと思った理由とかは色々調べているけれど、いずれにせよ日本のテレビ芸能とヒップホップが早い段階で結びついた例のひとつなのは間違いない。そしてまた、ゲイシャガールズは「逆輸入アーティストとしての日本語ラッパー」を提示していたと思う。逆輸入的な日本「人」ラッパーとしてはShing02からKOJOEまでの系譜があるけれど、やっぱり彼らは英語でラップすることで向こうのプロップスを集めてきたラッパーだったと思う。また同様に、DJやトラックメイカーなどの日本人ヒップホップアーティストもアメリカで評価されてきた流れはあった。そう考えると、日本語でなされた日本「語」ラップだけがやっぱり言語の壁を越えられずにいたとも思うのだけれども、これはご存知の通りKOHHがついに突破した。日本のヒップホップの歴史として、フェイクが先行してリアルが追い付くというケースは多いけれど、まさにそれに当てはまる例がGEISHA GIRLSからKOHHという流れだったんじゃないだろうか。


4.NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDNITRO MICROPHONE UNDERGROUND
NITRO MICROPHONE UNDERGROUND[Def Jam edition]
完成度と革新性を兼ね備え、それでいてフォロワーも生んで新しい潮流を作った最強のアルバム。アルバム単体の革新性はもちろんのこと、やっぱりDEF JAM JAPANとかRIKOといった名前も思い出されて、そういうヒップホップのディストリビューターまでよく見える「産業としてのヒップホップ」も面白かった。ヒップホップにそれほどのめり込んでるわけでもなかった私でも、町田のTAHARAで大々的にDEF JAM JAPANとニトロのパネルを見たときは感動した(記憶違いだったらすんません)。


5.SEEDA『花と雨』
花と雨
6位のPSGと本当に迷ったけど、ここはBACHLOGICとSEEDAの奇跡的な仕事が刻まれたという意味で、こちらを少し上にランキングした。とはいっても、また選ぶ時期が変わればどっちが上になるかわからない。


6.PSG『DAVID』
David
PUNPEEとBACHLOGICは、日本のヒップホップの流れを一気に変えたプロデューサーだったと思う。『花と雨』がSEEDAに文学的な拡がりを与えた作品だったとしたら、『DAVID』はどこまでも映像的な音だったと思う。ちょっと感覚的な言い方だけど、でもghettohollywoodの超名作ビデオの出来を見ても、やっぱりそうなのかなという気がしてくる。


7.BUDDHA BRAND『病める無限のブッダの世界 〜BEST OF THE BEST(金字塔)〜』
病める無限のブッダの世界 ― BEST OF THE BEST (金字塔)
まあこれは普通に、どう考えても選ばないわけにはいかない。日本語ラップが目指したひとつの頂点を極めてしまった。スタッテン島のシャオリン使いたちと同じ水準でやってのけたのがブッダブランドだったんだろうなあと思う。


8.LowPass『Mirrorz』
Mirrorz
凝ったトラックの上でめちゃくちゃうまいラップが展開するだけでもすごいけれど、そのリリックが言葉遊びに終始してることに感動する。言葉遊び系とはいっても、やっぱり日本語ラップ黎明期のそれとは大きく違っていて、一番違うのは支離滅裂な展開の仕方。全体を通してのコンセプトが見えない。これには書き言葉の言葉遊びと話し言葉の言葉遊びの違いというのがあるんじゃないかと思う。


9.ZEN-LA-ROCK『LA PHARAOH MAGIC』
LA PHARAOH MAGIC
いまだにヒップホップの黒歴史的な扱いを受けることさえあるニュージャックスウィングだけれども、このアルバムを聞けば聞くほど、まだこちらの道へと延びていくヒップホップの豊かな可能性に気づかされる。テディーライリーという分岐点から、ファレルにいくのか、ZEN-LA-ROCKにいくのか。まだまだわからない。


10.SCARS『THE ALBUM』
ジ・アルバム
ハスラーの世界を日本語で歌う。その強烈なインパクトもさることながら、マイクリレーの巧みさにも目を見張る。ある意味では実録ニトロだったと言ってもいいかもしれない。


11.いとうせいこう『MESS/AGE』
Mess / Age
完全に書き言葉的なコンセプトと展開がぴったり一致した言葉遊びではある。ラップ=メッセージをどのように崩すのか。みうらじゅんアイデン&ティティ』よろしく「不幸なことに、ぼくらには不幸なことがなかった」の問題に、日本語ラップとして初めて答えを出したのがこのアルバムだったのではないか。ちなみに、この次にその問題に回答を出した作品はスチャダラパー『彼方からの手紙』だと思う。


12.キミドリ『キミドリ』
キミドリ
インディペンデントカルチャーは雑多な未発達の文化の混交・交流を促すけれど、日本のヒップホップにおいて、その様子が色濃く投影された作品がこれだと思う。ラップスタイルも「ストリートっぽい」と形容すればいいのか、ぶっきらぼうな感じがむちゃくちゃパンク。


13.AUDIO SPORTS『Era Of Glittering Gas』
ERA OF GLITTERRING GAS
ヒップホップが明確にジャンルとして線引きされる前、可能性としてのヒップホップに挑んだ作品。普通にめちゃくちゃかっこいい。


14.m-flo『ASTROMANTIC』
ASTROMANTIC(CCCD)
ヒップホップは成り立ちから見ても、ボトムアップで切磋琢磨するカルチャーだと思われている。でも、これだけ大きな産業には、お金も人もふんだんにリソースを割いて、トップの人たちだけで構成されている側面も当然あるわけで、m-floは確実に日本でそれを担っている。(細野晴臣でなく)坂本龍一にラップさせたこのアルバムは、m-floの路線を確固たるものにした。ように見える。


15.YOU THE ROCK★『THE★GRAFFITI ROCK ‘98』
THE☆GRAFFITIROCK’98(CCCD)
アルバム一枚でヒップホップの歴史を辿ってみせるという、一種の離れ業だと思う。ユウザロックのラップの魅力も全開で「全身でラップする」という表現がぴったり。


16.ECD『The Bridge 明日に架ける橋』
The Bridge-明日に架ける橋
正直に白状すると、ラッパーECDを本当にすごいと思ったのはこのアルバムからだった。つい最近です。流行りのビートもしっかり咀嚼したうえで、自分のラップを乗せる真摯な姿に胸を打たれる。あと、これは今後、ラッパーの高齢化問題に取り組んだ最初期の作品になるのではないだろうか。


17.SHAKKAZOMBIE『HERO THE S.Z.』
HERO THE S.Z.
実は入口は『カウボーイビバップ』だった。「日本語ラップはダサい」という偏見しかなかった中学生が素直に聞き入ってしまった曲が『空を取り戻した日』。まあこれは個人的な経験だけれども、とはいえ、そういうジャンル・メディア横断的なことができる拡がりを持った名作なのはひとつ。


18.LUNCH TIME SPEAX『B:COMPOSE』
B:COMPOSE
MVでTAD’SがTシャツをパンツインしてラップしてる様子がむちゃくちゃかっこよかった。GOCCIの男ウケ間違いなしのラップがむちゃくちゃかっこよかった。メロコアもヒップホップもストリートのことを言うけれど、それが同じものを指していることを知ったアルバム。


19.SOUL SCREAM『The positive gravity~案とヒント~』
The positive gravity?案とヒント?
はじめて買った日本語ラップのアルバムだった。日本語でどのようなフロウを完成させるかが日本語ラッパーの宿命だった時代に、一番魅力的なものを提出したグループだと思っている。


20.THA BLUE HERB『STILLING STILL DREAMING』
STILLING STILL DREAMING
対東京、対渋谷を打ち出した功績が大きいのはもちろんだが、単純にものすごいスピーチが聴けるという意味で抜群の存在感。演説とラップはつくづく同じものなんだと思う。


21.TWIGY『SEVEN DIMENSIONS』
セヴン・ディメンションズ
単純に、ツィギーの魅力が一番詰まったアルバムなんじゃないかと思う。多種多様なフロウを緩急自在に使いこなすキレッキレのツィギーが聴ける。あと客演してるマッカチンがむちゃくちゃかっこいい。


22.KAKATO『KARA OK』
kakato-kara-ok.tumblr.com
フリースタイルがすごすぎるふたりの即興的快楽を、カラオケという密室空間で見事に表現。J-pop的記憶の使い方もさることながら、普通に良質なポップスにしてしまってるのもすさまじい。


23.MACKA-CHIN『CHIN NEAR HERE』
CHIN NEAR HERE(通常盤)(CCCD)
マッカチンは明らかに時代を作ったアーティストだと思う。PSGを初めて聞いたときの衝撃にデジャヴがあったんだけど、それは絶対この作品だったと思う。サンプリングの仕方も、ラップの主題の選び方もなんか変で、自身はものすごくハキハキラップする。ニトロのファーストの後にこうした展開を用意できるところに、音楽的厚みを感じる。


24.THREE ONE LENGTH『THREE ONE LENGTH』
THREE ONE LENGTH
思わず「エバーグリーンな名作」とか言いたくなるくらい、一瞬と永遠が同義であることを認識させられる。いつ聴いても、このアルバムを聴くときは、いつも同じ自分になってしまう。


25.DELI『DELTA EXPRESS LIKE ILLUSION』
DELTA EXPRESS LIKE ILLUSION(CCCD)
ニトロ以後、ニトロ的世界観をもっとも展開していったのがDELIだったんじゃないかと思う。なんというか、ソロ作品なのに客演ぽいというか、その辺がとても冷静。客演というヒップホップにおける重要な要素を考えるために、これからも何度も聞き返されるべき作品。


26.Dragon AshViva La Revolution
Viva La Revolution
これはやっぱり、ロックミュージシャンのアルバムではなくて、ヒップホップとして数えられるべきアルバムだったんじゃないか。日本版『walk this way』だと思ってる。


27.SIMI LAB『Page1:ANATOMY OF INSANE』
Page1:ANATOMY OF INSANE
ファーストだけれども、OMSBとQNが同時在籍していた時期の最後のアルバム。とか考えてしまう。それはともかくとして。日本語ラップは日本語を分解してまた組み直す作業なわけで、微妙な言い方になるけど、おそらくシミラボは組み直す際の手つきに独特なものを持っている。


28.NORIKIYO『OUTLET BLUES』
OUTLET BLUES
孤独であることのなかには、さみしさとは真逆の、一種の円満な、幸福に閉鎖された世界もある。多くのラッパーからそういうことを学ぶけれども、NORIKIYOがリリックで描く街は、そういった幸福な閉塞をもたらす存在のように聞こえることがある。


29.KOHH『YELLOW T△PE』
YELLOW T△PE
まるでL.A.かと思うような『we good』のMVを観たとき、日本語ラップが完成したと思った。ミックステープが出るというのですぐさま買って、『僕といっしょ』からのサンプリングや『family』を聴いた。完璧な日本語ラッパーが現れたと思った。


30.Moe and ghosts『幽霊たち』
幽霊たち
ゴーストコースト(彼岸)というアイデアは□□□『お化け次元』でも提示されていたけれど、それをガチでやってしまったのは間違いない。ラップは話し言葉に漸近するものであり、そこにラッパー自身が見えてくるのだと思っていた。しかしMoeがやってのけたのは、どこまでも「話し言葉に近づかないままのラップ」であり、要するに歌声のままラップするということ。このコンセプトを突き詰めた先にはテクニック派に向かうしかないようにも見えるけれども、もしもそれとは違う道が見えたら、ラップが、ヒップホップが変わる。


以下より抜粋
2017-05-25 - 日々:文音体触 〜compose&contact〜